第2話 転職

 広司は故郷へ帰ってきた。両親は、心配しながらも黙って広司を迎え入れた。広司は、麻美に言ったように、フリーターへの道を歩み始めている。



 広司の父親は会社員で、母親はパートの事務をしていた。広司の部屋は、兄の部屋と同様に二人が出てから空き部屋になっていて、里帰りした時に使えるようになっていた。広司と水原が会う時は、もっぱら水原の家が多かった。水原の部屋は、母屋兼事務所の3階建ての最上階だった。水原の父親は弁護士で、母親も事務の手伝いをしていた。水原は弁護士志望だが、まだ司法試験に合格していない。 


 彼らは同じ大学で、工学部と法学部の違いはあった。麻美とは、アプリで知り合い、広司と付き合った。水原は特に決まった相手はいなかった。

 水原は広司がフリーターの気軽さと不安定さの両立の中で、果たして人生の悩みを解決できるか心配だった。水原は、父親の事務所で働きながら目標に向かって努力する毎日だった。麻美が広司に対して、今の仕事を続けながら悩みの解決をするよう勧めた事も水原は知っていた。広司は、必ずしも麻美に対して恥じて故郷へ戻って来た訳ではなかった。やはり、親に対する甘えからだった。故郷には暖かい家庭があり、友がいた。麻美と離れるのも辛かったがそれ以上に、麻美との心の距離が遠くなり、その距離を縮めようとして、悩みの暗闇の中にますます引きずり込まれて行くのが辛かった。

 広司は、心の奥底に言い知れぬ悩みを抱えながら、精一杯にその中から抜け出そうともがく様を隠して、水原に生き甲斐追求の旅の話しをした。水原にも夢があり、広司の思いは手に取るように分かった。フリーターになってからは、自分の求めるものから次第に離れて行くような強迫観念に囚われる事が多くなっていた。広司はまだ自分の心を納得させるものもないまま、不安定な日々が続いていた。最初の会社を辞めてから半年が経過し、5社目でアルバイトも落ち着いた。



 今回は、自動車販売会社のサービスにアルバイトとして雇い入れられた。仕事は、車の回送と洗車だった。広司はマイカーで出勤している。この会社が販売している車とはメーカーが違っていた。やはり、社員の車はこの会社の車ばかりだった。

 広司は事務所に顔を出して、納車準備をする車検車のリストを受け取ってきた。それ以外は、散発的に新車1ヶ月と3ヶ月点検の車を洗車する事がある。これらは、契約済みの近くのガソリンスタンドへ行き、洗車機を使用する。しかし、新車同様に傷が付いていないものは、手洗いする事になっていた。また、車に色々な物が取り付けられていて取り外すのに面倒なものは、手洗いになってしまう。それ以外には、トラックや今にも塗装が剥げ落ちそうな車も手洗いをした。こうすると、半分以上は手洗いすることになった。

 広司は、独りで朝から5台を洗車した。先程から、納車準備のリストにありながら、まだ車検の整備を続けている古い車があった。その車は、朝一番に洗車しょうとして、エンジンが掛からなかったオートマチック車だった。ようやく、修理が終わったようで、彼に洗車してもいいという許しが出た。この車は洗車機を使用してもいい車だったため、彼はガソリンスタンドへ車を走らせた。



 この車が駐車していたところから発進して、国道へ出る時にはブレーキを踏んだ。それから、徐々にアクセルを踏みスピードを上げて、会社とガソリンスタンドの中間ぐらいにある信号機に差し掛かった。この信号の待ち時間が実に長く感じられて、いつも広司は焦れていた。赤信号が長いのは、並行して走る旧道のためだった。


 この信号機は青信号と赤信号の時間配分を国道と旧道とで取り違えたようだ。国道の青信号が15秒で赤信号が60秒だが、旧道の青信号が30秒で赤信号が45秒だった。国道は、いつもこの信号機で、長い時間待たされるが、一方通行でがら空きの旧道はスイスイ車が流れていた。それで、国道は旧道からの右折が禁止されているため、空になった交差点を見詰めて30秒の赤信号を焦れながら待つか、右折禁止を無視して車が進入して来ない事を見越して、赤信号を通り抜けるかのどちらかを選択していた。


 この日も国道の短い青信号を通り抜けるために、彼はアクセルを緩めなかった。この信号を通り過ぎると、ガソリンスタンドが見えてきた。彼は、国道から左折して、スタンドへ入った。そこから直進したところに、洗車機がある。この洗車機へ入って止めるまで、何の異常もこの車にみられなかった。彼はチェンジレバーをパーキングにして、サイドブレーキを引いて止めた。そして、フロアマットと灰皿を出してから、洗車機のスイッチを押した。洗車機が自動で車を洗っている間に、マットと灰皿を洗浄機で洗った。あとは会社に戻ってから車内を掃除すればと思いながら、車へ乗り込んだ。



 広司はサイドブレーキをはずし、ブレーキを踏みながらエンジンキーを回した。そして、チェンジレバーをバックに入れた。この瞬間、ブレーキを踏む足を思い切り、踏ん張った。発進しようとする力を足に感じたためだった。彼は前方に鉄の扉があるため、慌ててサイドブレーキを引きエンジンも切った。彼は一瞬これが急発進というものではないかと思って、ハッとしてブレーキを踏み、咄嗟にエンジンまでも止めていた。


 急発進については、聞きかじりではあったがブレーキさえ踏めば止まると思っていた。しかし、彼は足に感じた力には驚かされていた。だが、辛うじて足の力で止まっていたところから、会社まで1キロぐらいなので、帰れるだろうと思えた。万一の場合を考えて、フットブレーキの他にサイドブレーキを引く事を頭に入れて走行しようと考えた。


 彼は改めてエンジンを掛け、サイドブレーキをはずし、レバーをバックに入れた。ブレーキに掛けた足を緩めるとバックし始めた。ブレーキペダルの上から足を外す事はできない。これは、会社へ着くまで同様だと彼は思った。バックのままUターンして、いよいよレバーをドライブに入れた。足に掛かる力は、バックの時よりも増していた。今にも急発進するような力だった。国道の出口まで車を前進させ、渾身の力を込めてブレーキを踏んでいた。前を通り過ぎる車を見送りながら、これから起きるかもしれない急発進を、恐れと言い知れぬ期待との複雑な思いの中で広司は待った。



 そして、ブレーキを外し、広司は車を国道へ発進させた。アクセルを踏んでいないが、オートマチック車のクリープ現象以上にスピードメーターが上がって行く。スピードメーターは10キロを過ぎて20キロになっている。まだ、スピードは上げ続けている。30キロも40キロも過ぎた。後方には他の車が見えない。広司はスピードの上昇を楽しむかのように、スピードメーターを見た。もう、50キロに達している。前には信号機がある。信号機は黄色だった。広司はブレーキを踏みたくなかった。この車がどのくらいまでスピードを増すのか確かめたい気持ちで一杯だったからだ。このまま、ブレーキを踏まずに通り過ぎられると思った。それに、赤信号になったところで30秒間は前を横切る車がない信号機だと思ったからだ。この国道の制限速度は40キロだ。信号機を過ぎた時のスピードメーターは60キロを指していた。ここまで、一度もアクセルを踏んでいないが、スピードは上げ続けている。



 この当たりから、広司の心は先ほど感じた言い知れぬ期待に支配されていた。これを期待と呼ぶべきか、それとも絶望と呼ぶべきか、今の広司にはどちらでも良かった。兎に角、動き出した運命に乗って、流れに任せているだけだった。運命は、彼を飲み込み、彼をもてあそんでいるようだった。


 広司は運命に逆らって、自分の道を切り開こうと考え、大企業を辞めた。しかし、今の広司はその運命に押し潰されようとしている。いや、広司は運命にかこつけて人生を投げ出そうとしているのかもしれない。しかし、ここにきて広司は何もする必要がないのではないかという気持ちが勝ってきていた。自分には何も期待されていないという自暴自棄な考えが広司を支配しようとしていた。もう、広司は自分で自分を制御できなくなっていた。



「力の倦怠感。俺なんか、世の中の歯車の一つでもないんだ。もう、錆びて捨てられる運命なんだ。ただ一つの歯車が酸化して酸素を使うように、俺もただ呼吸して酸素を吸って、錆びた歯車のように俺もぼろぼろの人生を歩まなければならないんだ。どこまで沈めば気がすむのだ。


 忍耐より妥協の方がずっと楽だ。人生に妥協しようか。それが出来ないなら、このままアクセルを踏んで急発進させようか。いや、アクセルを踏まなくても、ブレーキさえ踏まずに左へハンドルを切りさえすれば、並木に追突し車が大破する事は間違いない」 



 広司は、ブレーキを踏む事をためらった。彼は、スピードメーターを見ながら、震える思いだった。スピードは80キロを優に越えていた。この瞬間を止める者はもういない。このまま前進し、スピードを上げ続けるのみとなった。彼は、会社を過ぎて、次の丁字路の信号を右折したブロック塀が、最期の場所となるという考えが浮かんできた。



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