第17話

 その日以降、俺たちは頻繁に連絡を取り、会うことが増えた。

 SNSの件はともかく、直接会って話す彼女には興味があった。


 実里とのデートはほとんどカフェや居酒屋に行くことが多かったが、時々映画館に行くこともあった。高校時代も二人でよく映画を見に行っていたな、と思うと感慨深いものがある。他にも海を眺めたり、川辺を永遠と話しながら散歩したり、彼女と付き合っている頃を彷彿とさせるデートを重ねた。記憶喪失とはいえ、彼女の心のどこかに俺と交際していた頃の気持ちが残っているのではないだろうか、と少女漫画みたいな奇跡を思い描いた。


「五十嵐くんは、好きな人はいないの?」


 ある日、いつもの如く二人で散歩をしている最中に足を踏み入れた喫茶店で、彼女がアイスティーを啜りながらそう聞いてきた。お互いの就職活動もいよいよ佳境に入り、そろそろ最終面接が行われる企業がいくつかあった。彼女の方は、本命ではない会社から内定をもらっているようで、以前よりも心に少し余裕ができているようだった。


 散歩の途中でパラパラと降ってきた雨が、本格的に降り出して庭先の紫陽花を艶やかに濡らしていく。紫陽花は水に濡れている時の方が好きだ、と高校生の彼女が言っていたのを思い出す。梅雨は好きじゃないけれど、雨に降られた紫陽花が、化粧を覚え始めて輝いていく少女のようだと彼女は言った。紫陽花一つにそんな見方をする彼女を、俺は美しいと思った。


 好きな人はいないのか、という彼女の質問に、俺の心臓がひと跳ねする。

 外でもない、きみのことが好きだ。

 そんな素直な気持ちを口にできたならば、俺はもう少しマシな人間になっていたことだろう。


「好きな人はいないけど、今は元カノのことが気になっている」


 結局、含みのある言い方をしてしまって、俺はダメだなと凹む。元カノのことが気になるなんて言われていい気分になる女性はいない。間違いなくいない。ただ、俺の場合は特殊な事情があるので、一般的な意見は多少跳ね返せる自信があった。  


 実里は俺の返事を聞いて、「へえ」とつまらなそうに頷いた。手慰みにストローをくるくるか回している。そりゃそうだよな。目の前の男が、元カノのことを気にしているなんて知って、どうすればいい。


 しばらく俺たちの間を流れる沈黙に、俺は普段は実里との間に感じることのない気まずさを覚えた。あんなこと、言わなければよかったという後悔がじわじわと広がっていく。小学生の時、習字の授業で俺の書いた文字が、時間が経つごとに滲んでいったのを思い出す。教室の後ろに全員の文字が貼り出された時、俺の文字だけが滲んだ墨汁のせいで丸みを帯びていた。その時の苦い思いが、今彼女の質問に答えた俺の中に蘇っていた。


 実里は窓の外でふりしきる雨を見つめて、ふうと息を吐く。何を考えていたのだろうか。やがて彼女はゆっくりと口を開いた。


「それって……嘘、だよね」


 吐息を漏らすような声でゆっくりと絞り出された声に、俺は息をのんだ。

 他人の嘘を見抜くことができる、不思議な力を持ってます。

 SNSのプロフィール欄に書かれていた一文がフラッシュバックする。

 心臓の音が、外から聞こえてくる雨音よりも大きく鳴っているのではないかというぐらい、激しく脈打っていた。彼女の瞳は驚くほど澄んでいて、一点の曇りのない目で俺を見つめた。


「……」


 返事はできなかった。単になんと言えば良いのか分からなかったということもあるが、それ以上に今目の前にいる実里の瞳が宝石玉のように美しく、もう少しこのまま眺めていたいというのが本音だった。


 他人の嘘を見抜き、それをSNSで豪語する実里。彼女は今日のことも、SNSで呟くのだろうか。大学の友達に教えるのだろうか。でも、そんなことすらどうでもよく思えるほど、今俺は新しい彼女のことをもっと知りたいと思ったし、もっと近づきたいと思っていた。


 彼女の心の深淵に触れたい。


 高校時代、あの鈍い青春の痛みや輝きの中で思い続けてきたことを、俺は再び感じるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る