第3話
「
グループディスカッションを受けたR食品のビルから出て最寄駅まで歩いている最中、後ろから軽く肩を叩かれた。
「松葉さん」
振り返るとそこに立っていたのはやはり彼女だった。最寄駅までは大抵の学生が帰り道が一緒なので声をかけられるかもしれないとは思っていたけれど、まさか本当に予想が的中するなんて。心臓がどくんと一回大きく跳ねる。彼女と、一体何を話せばいいのか。
「五十嵐くんもこっちなの?」
「ああ。京鉄なんだ。松葉さんも?」
「ええ」
京鉄というのは今から俺が乗ろうとしている電車のことだ。どうやら彼女も同じ電車らしい。このまま一緒に電車に乗る流れになるのかな、と予測する。こんなふうに明るい彼女と話すのは慣れない。そもそも就職活動自体、俺の性格には合っていないのだ。あんなの、コミュニケーション能力に長けていて、その場の流れを把握する力があるやつが一番強い。俺みたいに、周りの空気感とか周りの目を気にして自分の意見を変えてしまうような人間に、就活がうまくいくはずがないと思っている。
実里は一瞬俺から目を逸らし、どう話を切り出そうか迷っている素振りを見せた。なんだろう。単に一緒に帰りたいというだけなら、話の流れでそのまま同じ電車に乗ってしまえばいいのに。そこまで迷うことないだろう。今日ディスカッションで場の流れを掴み、チームの議論を引っ張っていた彼女ならできないはずがない。ただそうしないということは、他に何か話があるということだろう。
「あのさ……こんなこと言うのもアレなんだけど」
「アレ」というところで彼女は俺からまたも目を逸らす。なんだ。何を言おうとしているんだ。
一呼吸待って、彼女がようやく核心部分に触れる。
「大学院生って嘘だよね?」
俺が大学院に進みたいと思ったのは、同じ学部にいた同期のやつらが皆一様に大学院に進学すると言ったからだ。
農学部で食品関係の研究をしていた。研究室内で飛び交う言葉はアミノ酸がどうとか、マウスの実験がここまで済んだとか、いかにも理系の研究室らしいものばかりだった。もともと自分も理系教科が得意だったので、専門的な言葉が飛び交う教室にいても苦にはならなかった。
「俺さ、食品会社でアレルギー対応食品の研究をしたいんだ。妹がエビアレルギーなんだけど、あいつエビが大好きでさあ。今でももちろんそういう食品ってたくさん出てると思うけど、味とか食感とか、より本物に近づけて、誰もがアレルギー食品でも美味しく食べてるような感覚になってほ
しくて」
同期だった一人の男がビールジョッキを片手に夢を語ると、周りにいたやつらも次々に“将来やりたいこと”を口にした。強制ではなかったはずのその告白大会も、いつしか全員が夢を話さなければならない空気になっており、最後に順番が回ってきたのが俺だった。
「
研究室で一番成績がよく、端正な顔立ちで「イケメン」と皆から称される伊藤がこちらに視線を向けた。アルコールのせいか顔が耳まで赤くなっているのに、なんて目力だと思った。
「俺は……みんなと同じだよ。食品会社で働きたい」
少し間をあけてから出てきた答えは、当たり障りのない、言い換えればひどくつまらないものだった。
「そっかー。やっぱみんな研究だよな。せっかく大学院まで来たんだし」
伊藤は頭の後ろに腕を組み、店員さんにビールのおかわりを頼んだ。俺の話したことに、少しも疑問を抱いていない様子だ。ほっとしつつも、なんだか後ろめたい気分にさせられた。
その日から、俺の脳裏にはいつも自分が本当は何がしたいのか、という疑問が付き纏った。
相変わらず研究室でひたすら実験に打ち込む日々を送っていたが、ふとした瞬間に隣で熱心に実験の結果を記録する友人を目にしたり、英語で書かれた論文と格闘する先輩の姿を見たりするたびに、腹の底の一番深い部分が、ツンと針で突かれたような痛みを覚えた。
そして、いざ就職活動を始めようと思った今年三月、ついに張り詰めていた糸が切れてしまったのだ。
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