第4話

 何か特別なきっかけがあったわけではない。ただ、ずっと細くピンと張っていた糸が限界を迎えてしまっただけだ。隣の県の実家で暮らしている母親に電話をして、「大学院をやめたい」と告げた。母は始め、「どうして?」と聞いてきた。当然の疑問だろう。一年前に大学院に進むための試験を受け、学費を払ってもらえるように母親に説得したのは自分だ。その時は確か、「理系はみんな院進するもんなんだ」と通り一辺倒の理由を話した。母は案外あっさりと「そう」と大学院に進学することを許してくれた。「みんなやってるから」「みんな行ってるから」という言い訳は、日本人ならば誰にでも通用する免罪符のようなものだった。


「いろいろ考えて、今やってる研究に自信がなくなったというか。みんな、食品会社に行きたいって言ってて。それなら俺も、別に研究職じゃなくても同じようなところに就職できるかなって。今やりたくもない研究に無駄な時間とお金を費やすより、時間を有効に使える方がいいかと、思って」


 自分の言い訳にだんだんと自信がなくなってきて、最後は尻すぼみになってしまった。でも母はまた「そっか」とだけ呟いて、それだけでもう了承の意を得たのだと分かった。


「頑張って」


 ただ一言、最後に母がくれた励ましの言葉が今でも俺の頭から離れない。余計なことは何も聞かず、背中を押してくれた母。全身から一気に力が抜けて、その日には大学院二年生に進学するのを辞めるよう、大学で手続きを済ませてしまった。決意した時はとても緊張していたし、本当にこれでいいのかと何度も自分に問いかけた。でも、いざ決断をして行動に出てしまえば呆気ないものだった。


 かくして俺は大学院二年生にはならず、一年間は無職のフリーターとして就職活動に専念することになった。別の会社の面接でなぜ大学院を辞めたのかとつっこまれることも多いが、素直に答えていれば採用担当者もそれほど引っかからないようだった。自分たち学生が気にしていることなんて、大企業の人間からすれば些細な点にすぎないのだ。


 そういうわけでこの日も俺は、フリーターとしてR食品の採用試験を受けに来たのだ。グループ内の自己紹介では面倒なので「大学院二年生」と嘘をついた。もちろん履歴書にはきちんと大学院中退と記載している。他の学生にちょっと嘘を言っただけだ。採用には響かないと思う。





 松葉実里の真っ直ぐな瞳が、俺の目を掴んで離さない。

 地下鉄の入り口から風が吹きつけて、きちんと固められていた彼女の前髪がはらはらと崩れた。前髪がある方が、色っぽくて綺麗だなと場違いなことを思う。


「……嘘だ。大学院生じゃない」


 ごくりと生唾を飲み込んで喉の奥から絞り出た答えに、実里は満足げに微笑んだ。


「やっぱりね! あーそうかなと思ってたの。それが気になって、議論に集中できなかったんだからっ」


 いやーすっきりした! と表情を綻ばせる実里。そんなことが気になっていたのか? 議論に集中できなかったって、その割にはちゃんとチームをゴールまで導いていたように思うけれど。


「なんで分かったんだ? 顔に出てた?」


「うーん、顔に出てたっていうか、私、分かっちゃうんだよね。人が嘘ついてるのが。なんかこう、誰かが嘘をついてると、パッとひらめくの。火花が散るみたいに目の前がチカチカしてくる。超能力って私の友達は言うけど、特殊能力があるみたい」


 真剣な顔で「超能力」などと口にする大学院生の彼女を、俺は茫然とした気分で見つめてしまう。


 人の嘘が見抜ける超能力なんて、聞いたことがない。そんな能力があるなら、犯罪者を取締るのに大活躍するだろう。


 と心ではつっこみたい気持ちでいたのだが、実際俺は彼女に嘘を言い当てられている。そういえばディスカッションの時も、大学四年生の早瀬くんが、ディスカッションが初めてというのは嘘だと見抜いていた。


「……すごいね。そんな特殊能力ある人、初めて会った」


「でしょ」


 得意げに笑う実里が、勝気な表情で乱れた前髪を黒いピンで止めた。


「本当に、初めてだよ」


 俺は、八年前に初めて彼女と出会った日のことを思い出す。

 あの日も彼女は、黒いヘアピンで風になびく横髪を止めていた。


 高校二年生の、秋の運動会での出来事だった。


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