第2話

 さて、人が死ぬ瞬間というやつを見たことがあるだろうか。ちなみに、僕はある。

 長い人生なのだから、どこかで一度ぐらいはそういう瞬間に立ち会うというのは、特に珍しいことでもないような気がするかもしれないが、しかし、一口に『人が死ぬ瞬間』といっても種類がある。

 種類があるということは、当然、幸せな『死ぬ瞬間』も不幸な『死ぬ瞬間』もあるということだ。

 死という単語を用いて幸せというのもいささか変な気分がするかもしれないが、考えてみればそうでもない。

 病院のベッドの上で、親戚一同、特に孫なんかに囲まれながら死ぬことができれば、それはむしろこの上なく幸せなように感じる。

 逆に孤独死は辛い。

 実際に経験したことのある人から話を聞いたわけでもないので、あくまで想像の話にはなるが、自分が死んだことに誰も気づかないというのは、生きているのと死んでいるので周りに与える影響が同じだということだ。

 それはつまり、最初から死んでいるのと同じだと言えるだろうし、死んだ者として扱われているとも言えるのではないか。

 そういう意味では、孤独に死んでいくぐらいなら、誰かに殺された方がマシなのではないかとさえ思えてくる。

 少なくとも、誰かしらが自分の死を認知してくれて、自分を看取ってくれるのなら、それは幸せな方の死なんじゃないだろうか。

 こんなことを言うと、やっぱり捻くれた考えだと思われるかもしれないが、これについては僕自身も甘んじて受け入れるつもりだ。

 殺人には被害者がいて、残された遺族の気持ちもあるわけだから、それを幸せな死というのは、彼らの気持ちを踏み躙ることにつながるかもしれない。その点については、僕は誠意を持って謝罪する覚悟が十二分にあるつもりだ。

 まあそれでも、そういうふうに誰かが悲しんでくれる時点で幸運だろうという、捻くれた感想は何ら変わらないのだが。

 兎に角、世の中には無数の死の瞬間があって、それはこれからも増えていくのだろうが、その中でも僕が見たそれは一際凄惨だったということは、最初に言っておくべきだろう。

  

 

 

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