第39話 欲しいもの
任務も無事にこなし詰所に戻ったリツは、例によって例のごとくセツと報告書の作製にとりかかっていた。
橙色の灯りも、漂う香も、筆を走らせる音もいつもどおり。
「そういえばさ、今回の件とは別に月例の報告書の期限もそろそろなんだけどね?」
「かしこまりました。では途中で投げ出さないよう副班長としてしかと監視いたしますので、どうぞご存分に筆を揮ってください」
「うぅ……、しらべの意地悪」
「なんとでもどうぞ。今回の任務はそれほど負担が大きくありませんでしたから、私が手を貸す必要もないですよね」
交わし合う言葉もいつもと変わらない。
「あはは、たしかに。
「……」
それでも、いつもの苦笑にはない翳りがたしかに感じられる。
思い返せば、セツはこれから起こることを見据えているような言い回しをする節もあった。
メイの家族関係の歪さ、ハクの咬神の娘への思い。効率を最優先に考えて前もって複雑な事情を明かしたという話ではあった。
ただし、もしもそれらが原因で起こる不都合を具体的に知っていたからだとしたら。
すっごく心残りがあったから
すっごく未来から
魂だけが帰ってきたかんじ
稀なことではあるけど
ない話じゃないんだよ
幼い声が鮮明に蘇る。
「しらべ? なんかつらそうだけど平気?」
不安げな顔が首を傾げた。
なんでもないと、この場をやり過ごすことは難しくない。むしろ、そうすることが最善なのだろう。
「……セツ班長は、ヒナギクという名に違和感を覚えなかったのですか?」
「……え?」
見つめた目が軽く見開かれる。
聞いた話が真実だとしたら、ヒナギクという花はあの場所以外に存在しないはずだ。それなのにセツは訝しむこともなく、いい名前だ、と口にした。
魂が帰る帰らないの真偽は分からない。それでも、ずっと先のことを知っている可能性があるのならば。
解消のためにできることは
増えると思うんだよ
この先に起きることを知っている可能性があるのならば。
「……ああ。たしかに、聞き慣れない言葉ではあったけどね。でも、あれでしょ? あの子の周りに咲いてた花にちなんでつけたんだよね?」
「……なぜ、そう思ったのですか?」
「だってほら、
穏やかな笑顔が期待には沿わない答えを返す。
「……それはどうも」
結局、この先に何が起きるのかは何も分からないままとなった。
あるいはヒナギクが言うところの、ずっと未来のこと、を自分で思い出すことができれば。
「それよりさ」
不意に、穏やかな声によって我に返った。
「しらべはさ、本当に報酬を人のために使ってよかったの?」
「え? ええ。あの場ではあれ以外に思い浮かばなかったので」
「まあたしかに、私も同じような報酬を望んでたしなぁ。きっと、ハクは勿論メイだってそうだろうし」
「……そう、でしょうね」
本当に使いたかった相手を伏せたまま、リツは軽く頷く。
「……しらべ、本当に大丈夫? やっぱり顔色が悪いよ?」
「いえ、疲れが出ただけですよ」
「そう? ならいいけどさぁ……、あ、じゃあ気分転換に朝した話の続きをしようか!」
「朝の話、ですか?」
「そうそう。しらべが今欲しいものの話。さすがに神野殿のように人智を超えたものは無理だけど、今日のお礼も兼ねて奮発するよ! 鼈甲でも、真珠でも、珊瑚でも、琥珀でも、金銀でも、何でも好きなものを用意するからさ!」
「……」
「まあ、仕事用の道具のほうがいいなら、それでもいいけど。それでも、質は最高のものを用意するから。ずっと長く使えるように」
「……」
朝に問われたときは必要なものしか思い浮かばなかった。
「なにがいいかな?」
否、欲しいものを口にすることが出来なかった。
「……」
リツはおもむろに立ちあがると、セツのそばに寄り腰をおろした。
「……しらべ?」
覗き込んだ顔に困惑の色が浮かぶ。
大切な人が
呪いでぐちゃぐちゃになる
そんな言葉がなくとも退治人として生きる以上、お互い明日をもしれぬ身だと分かっている。
「私の、欲しいものは」
それでも、二人で穏やかに歩んでいく人生、そんなものを望んでしまった。
「……っん」
「っ!?」
叶わぬ望みを飲み込みながら、リツは自ら薄い唇を塞いだ。突然のことにはじめはこわばっていた体も唇を合わせるうちに徐々に熱を帯びていく。
気がつけば背に回された腕にキツく抱きしめられ、貪るような口付けを受けていた。
「……っは。はは」
唇が解放されると、欲を宿した笑みが目に映った。
「随分と意外なものが欲しいんだね」
「……ええ。ダメでしょうか?」
「全っ然」
楽しげな声とともに覆い被さる身体に押し倒される。服越しに触れた床は熱を受けて緩やかに温んでいった。
「ただ、あまり加減はしてあげられないよ?」
「ええ。むしろ余計なことは考えたくないので」
「ふふ、言ったね?」
軽く頬にふれた唇がそのまま耳元に移動する。熱い吐息に全身は粟立っていった。
「……しらべ、愛してるよ」
「……私もです」
甘い声に頷きながら、覆い被さる身体の背に腕を回す。
決して離れぬよう、キツく。
空には少しも欠けていない月が輝いていた。
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