第26話 羽愛づる姫君・六

 リツはため息をこらえながら咬神の娘に視線を送り続けていた。


「そう。きっとこの子の翅なら、私をこの不浄な邸から」


 微笑みながら腹を撫でつづける姿は幸せに満ちているようにも見える。実際、本人としてはこのうえない幸せを感じているはずだ。


「ひひっ。退治人の娘のわりに、随分とお花畑な姉ちゃんだな」


 部屋の中に嘲笑うような声が響いた。


「……はい?」


 虚ろな笑みが消え、腹に向けられていた視線が俄かに鋭さを増してベトベトサンに向けられる。希望に満ちあふれた未来を語る最中に水を刺されたのだから、当然のことだろう。


 ただし、水を刺される理由にも見当がつく。


「泥濘の君。人を愚弄するなら場所を選んだほうがよろしいですよ」


 凄みを増した声が発せられると天井、壁、床下からカサカサという音が響いた。途端にセツの顔から一気に血の気が引いていく。


「……ごめん、リツ」


「はい。どうなさいましたか?」


「緊迫した状況のところ非常に申し訳ないんだけど、ちょっと背中をさすっててくれない?」


 いつもなら任務中はしっかりするように苦言を呈していただろう。しかし今回は、突き放すには顔色が悪すぎる。


「かしこまりました。それで少しでも気が紛れるのなら」


「ありがとう。この類の音を聞くと、腹の中を蟲のあやかしに這い回られたときを思い出しちゃってね」


 力ない苦笑に思わず背筋が粟立った。

 今でこそ第七支部の仕事は軽めのものが多いが、昔は厄介なあやかしが多かったと聞いている。きっと今の話も冗談や誇張の類ではないのだろう。


「ひひっ。なんだ、姉ちゃんも蟲を扱えるのか」


「ええ。あんな悍ましいものども、本当は見るのも嫌ですが」


「ひひっ! 悍ましい、ねぇ! ちょっと本当のこと言ったくらいで殺しにかかってくるやつにそんなこと言われるなんてな! 蟲さんたちも可哀想でちゅねー!」


「何ですって?」


 微かに震える背中を撫でるリツをよそに、ベトベトサンたちは言い合いをつづけている。そのうえ、部屋中から響く乾いた音も勢いを増しつづけている。


「……リツ」


「……ええ、そうですね」


 上目遣いの涙目に自然と首が縦に振れた。このままでは、蟲たちが一気にこの部屋に雪崩れ込んでくるだろう。


「姫君、少しよろしいでしょうか?」


「……なんでしょう?」


「部下の使役する者が非礼を働いてしまい、まことに申しわけございません。ただ、一つお話ししておきたいことがございますので、術を使うのは少し待っていただけますか?」


「お話、ですか」


 向けられた目の鋭さはわずかに和らいだ。それでも、部屋を取り囲む音は止んでいない。


「ええ。そのお腹の子の父親・・についてです」


「……蜉蝣の君がなにか?」


 天井と床越しに乾いた音が近づき、背中を冷たい汗が伝った。


 下手なことを言えばただでは済まないだろう。それでも、伝えなくてはいけない。


「その方に言葉は通じましたか?」


「ええ。とても素晴らしい方でしたよ。私の置かれた状況をまるで自分のことのように嘆いてくださって……」


 不意に鋭い目つきがハクへ向けられ、猫背気味の肩が軽く跳ねた。あからさまに不満を吐きだしたい様子だが、ここで話を脱線させたくはない。


「お優しい方、だったのですね」


「……ええ。副班長殿のおっしゃる通りです。なにせ、この不浄の邸から抜け出す助けになる子まで授けてくださいましたから。『この子が翅を持てば、必ずや貴女をここから連れ出すでしょう』と言って」


 恍惚とした表情と声がひどい頭痛を呼び起こした。


「副班長殿? お顔色が優れないようですが?」


「いえ、お気になさらずに。それでそのあやかしは、翅を持てば・・・・・、とおっしゃったのですね?」


「ええ」


「では、必ず翅を持つ・・・・・・、とはおっしゃっていないのですね」


「……え?」


 短い問い返しの後、乾いた音が一斉に止まった。咬神の娘は目を丸くして動きを止めている。

 

 間違いなくあやかしの言葉を、子が成長して翅を持てば、と捉えていたのだろう。それでも。


「……姫君は、退治人として働いてはいないのですよね?」


「え、ええ。父や夫の手伝いで蟲どもの世話は任されていましたが」


「では、あやかしに関する書物をお読みになったことは?」


「ありません……、ですがそれがなんだと言うのですか!?」


 部屋の中に足を踏み鳴らす音が響き、リツの頭痛はさらに悪化した。察してくれればまだありがたいと思っていたが、この様子ではそうはいかない。


「……リツ」


 不意に青ざめたセツが弱々しく声を発した。


「ここは、私が説明を」


 正直なところその言葉に甘えてしまいたくはある。それでも旧知の仲の女性、ましてや兄弟同然の相手の想い人に酷な事実を告げたくはないだろう。


「……いえ。結構ですよ、セツ班長」


「副班長殿! 勿体ぶらないで早く教えてくださらない!?」


「ええ。おっしゃるとおりですね、姫君。つまるところ、貴女が身籠った子供には翅など生えないかもしれない。むしろ、その可能性のほうが高いんですよ」


「……え?」


 咬神の娘は再び目を丸くして動きをとめた。そんななか、メイがおずおずと手を挙げた。


「えと、ですね。多分、なの、ですが、そのあやかし、このあたりに、巣食ってる蟲のあやかし、の、長、の一族、みたいなやつなんですが……、とくに決まった蟲の姿をしてるわけじゃないんです」


 おずおずとした言葉が続くうちに、目を見開いた顔色は青ざめていった。


「う、そ……」


「坊ちゃんはそんな悪趣味な嘘吐かねーよ。俺が知ってる限りだとそいつの親は蚰蜒、そのまた親は雨彦だったか……、ともかく直近で翅が生えてんのはアイツだけだぜ」


「うそ、嘘ウソ嘘嘘ウソ嘘……」


 微かに波立つベトベトサンを前に、娘は髪を掻き乱しながらうずくまった。


「ちがう。あの人が。お父様が。いつか。ハク様が。蟲が。きっと。蟲は。もう。そんなの。私も。潰して。でも。翅に」


 虚ろな表情が瞬きひとつせずに意味をなさない言葉を羅列していく。


「……班長」


「……うん。ハク、お願いできるかな」


 セツは懐から布を取りだしハクに手渡した。


「姫……。すまない……」


「翅が」


 言葉をこぼしつづける口が布に覆われ、瞬きを忘れた目がぐるりと上を向く。そのまま娘は腕の中に倒れこんだ。


「……セツ班長、あれは?」


「ただの強い眠り薬だから安心していいよ、リツ」


「そうですか」


「うん。まあ、あまり身重の女性に使うものじゃないけど……、あの子は死ねないわけだから」


「……そうですね」


 乾いた音が鳴り止んだ部屋のなか、リツは娘を掻き抱くハクの姿をただ見つめていた。

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