第27話 翅愛づる姫君・七
御簾越しに暗くなりはじめた庭をのぞむ部屋。リツは風に揺れる萩の花を眺めながら、意識を集中していた。
身に纏っているのは女房装束。動けないほどではないが、やはりいつもの退治人装束よりは窮屈さを感じる。
「リツ、状況はどうかな?」
隣で、髪を振分にし艶やかな唐衣を纏ったセツが首をかしげた。
「まだ距離は遠いですが、確実にこちらに近づいています」
「そうか。なら、血を流した甲斐があったよ」
鬢を耳にかける手には包帯、庭に面した廊下には血と薬を混ぜたものを入れた深皿。今回も、おとりが必要だと事前に打ち合わせてはいた。
「ふふ、心配しなくても大丈夫だよ。あの蟲の一族は好むけど、他のあやかしは一目散に逃げるような香りを混ぜてあるから」
「いえ、そこを気にしているわけではなくてですね。その、任務のためとはいえお……上長に怪我をさせるのはあまりいい気分ではないなと」
ワニ騒動のときにも感じた恐ろしさがまた込み上げてくる。
「ふふふ。リツにそう言ってもらえると嬉しいよ。でもこのくらいの痛み、まだマシなほうだから」
化粧を施した顔に悲しげな笑みが浮かんだ。視線はどこか遠くに向いているように見える。きっと、咬神の娘のことを考えているのだろう。
「……姫君のお産、無事に終わるでしょうか」
眠り薬を嗅がせた後、膨れた腹は急激に動きだした。慌てて咬神を呼び事情を説明すると力なく「娘が望んでいたことなら」という言葉が返ってきた。
「まあ、あやかしとの子を産むのは通常より身体に負担がかかるのはたしかだけどね。とくに、今回は成長やら産まれ落ちるまでの時間やらがかなり短縮されているから。でも」
紅の引かれた唇から深いため息が溢れる。
「あの呪いがかかっているなら、むしろ命を落とすほうが難しいよ。それに、ベトベトサンにも協力してもらってるし」
「ああ……、たしか体液がかなり強い痛み止めになるんでしたっけ?」
「……ん、まあそんなところ」
どこか歯切れの悪い返事をしたあと包帯を巻いた手が、また顔にかかった鬢を掻き上げた。
「身体を広げると安全な産屋も作れるし」
「たしかに。あれは驚きました」
「うん。あと咬神支部長も烏羽玉の人間だからね。人とあやかしの子の取り上げは慣れているってさ。あっちはうちと違って、退治の役に立つなら人とあやかしの子供を
「そう、でしたね」
その子供がどういう道をたどるのか。考えただけで気分が滅入る。
「あの子もさ、そこまであさはかでも短絡的でもなかったんだよ」
不意に、輝きだした夕星を眺めながらセツが呟いた。
「ハクが煮え切らないのも、結社や家のことを考えたらしかたない。それに、こまめに顔をだして話し相手になってくれるだけで、十分救われている。そんなことが文に書いてあったから」
「へー。妻を相手に他の女性とやり取りした文を話題に出すのですね」
「!? いや、あれはそういう文じゃなくてね!? あくまでも友人としてのやりとりでね!?」
いつになく取り乱す姿に思わず笑みがこぼれた。
「……もう。からかうなんて酷いじゃないか」
「あはは、ごめんなさい。でも何も追及しなかったら、それはそれで失礼かと思いまして」
「それはそうなんだけどさー、ともかく。ハクを罵ったのも……、私たちを殺めるのもやむなしなかんじだったのも、本意ではなかったんじゃないかなって言いたかったんだ」
「……」
あのとき母子ともに退治人することを選んでいたら、全員命を落としていたかもしれない。全員ではなくても、とどめを任されたハクは確実に。それでも、娘は意識を失ったふりを続けていた。
「……望みを叶えてくれないなら、いっそ殺めてしまおう。ですか」
「!?」
口をついて出た言葉に、セツが目を見開いた。
「し……、リツ。今の、は?」
「あ、えーと、以前対応した任務で、被害者かあやかしのどちらかがそんなことを言っていたような」
「それは、どんな任務だった?」
「たしか……」
リツは口元に指を当てて記憶を辿った。しかし、幼い頃から退治人を続けているためか、思い当たる節が多すぎる。
「……すみません、詳しくは思い出せなくて」
「そう……」
「ただ、とても血生臭くて悲しい任務だったようには思うのですが……」
「……そう」
寂しげな相槌とともに化粧を施した顔がかすかにうなずく。しかし、声をかける間もなくいつものどこか軽薄な笑みが浮かんだ。
「なら、仕方ないね。いやぁ、今回の後始末を穏便に済ませるために、なんか参考にできればなって思ったんだけど」
声色もいつも通りかそれ以上に明るい。まだ、一年にも満たない付き合いではあるが、これ以上追及するなと言っていることだけはわかる。
「……お役にたてず、申し訳ございませんでした」
「気にしない、気にしない。今リツに任せてるのは他の仕事だし。それでさ」
「はい」
「状況は?」
にわかにセツの目に鋭い光が宿る。
「空から向かってくるのが一体。築地の向こうに地を這ってくるのが三体、いずれも成人男性くらいの大きさです。地中には何もいません」
「うんうん。相変わらず素晴らしい察知能力だね。ということで」
眼光に鋭さを湛えたまま、夕星に笑みが向けられた。
「少しお話をしませんこと? 蜻蛉の君」
笑みを含んだ裏声が響くとともに、夕星の光が瞬きとは異なる歪みを帯びる。そして、水干を着た蜻蛉のあやかしが姿を現した。
「これはこれは、芳しき姫君と鋭き姫君。ご機嫌麗しゅう」
咬神の娘が言ったとおり、人の言葉は通じるようだ。それなのに、普通の蟲以上に嫌悪を感じる。
月明かりに照らされる翅を眺めながら、リツは吐き気を堪えた。
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