第25話 翅愛づる姫君・五
リツたちは几帳から這い出たベトベトサンを囲み、咬神の娘にかかった呪いについての説明を受けていた。
「あの姉ちゃんは今、胎の中身が危ない目にあったら命懸けで守らないといけない呪いにかかってるんだよ。生き物の道理だとかそういうのすら越えてな」
「生き物の道理を越えて、ですか?」
リツが問い返すと赤黒い粘液はザワザワと波だった。
「ひひっ、そうだ。例えばお前らが殺意を持って近づいたとすると、あばら骨が胸を突き破って飛んでくる、なんてこともありえるだろうな」
「そんなことをしたら……、彼女は……」
悲壮に満ちたハクの声に再び粘液が波立つ。
「ま、普通なら生きちゃいられないだろうよ。ただ、この呪いだと子がある程度自立するまで、死ぬことが
いつもよりもやや真面目な声に部屋のなかは静まりかえる。
リツも仕事であばらを痛めたことはあった。そのときは息すらままらない痛みに襲われたことを覚えている。身重の状態でそんな痛みに襲われたら、苦しみは計り知れないほどだろう。
しばらくの沈黙のあと、メイがおずおずと手をあげた。
「あ、あの、ベトベトサン。そ、そんな大怪我をして、死なないなんて、呪い、かけることができ……」
「……できるさ」
ベトベトサンが答える前に、セツが問いを遮った。その顔には色濃く翳りが見える。
「濁った金色の目を持つ奴らは、人間の命をどうこうする術に長けてるやつばかりだからね。条件付で死なないようにするなんて、容易いことだよ」
なぜそんなことを知っているのか。そんな質問をかけることすら許されない空気が周囲に漂う。
おそらく結社が管理する禁書に載っていたのだろうが、それにしては口調が断定的すぎるように思えば。
「……ひひっ。ハンチョーは物知りだな。ま、そういうことだ。あいつらは人間の数を管理するのか本分みたいな所があるからな」
「……らしいね」
やはりどこか事情を知っているように思える相槌を聞きながら、リツは几帳へ目を向けた。かすかならがら、横たわった娘の胸が上下するのが分かる。
意識はないが彼女はまだたしかに生きている。
「その呪いを解くことは……、できるのか……?」
再びハクが発言すると赤黒い粘液にシワが寄った。
「言っとくが、オレには無理だぜ。ただまあ、呪いをかけた奴ならあるいはとは思うけどな。ただ、その前にお前ら……」
ベトベトサンは息を吸い込んだように一回り膨らむ。
そして……
「……あの姉ちゃんがどうしたいのか、ちゃんと本人に聞いたのか?」
……わりと最初に確認しておかないといけない質問を投げかけた。
「え?」
「は?」
「は……?」
「え、と?」
突然のそもそも論を受け、一同に大きな混乱が訪れる。
「リツ、彼女の意識はなかったんだよね?」
「副班長……、どうだったんだ……?」
「え、えっと、副、班長?」
「みなさん、落ち着いてください。少なくとも呼びかけには答えませんでしたが」
しどろもどろになりながらも視線を送ると、赤黒い粘液の一部が伸び上がり首を傾げるように折れ曲がった。
「そうなのか? ぱっと診たかんじ頭んなかまではいじられてなかったけどな。なんなら、耳から中に入って詳しく診てきてやるけどよ」
「なん、だと……?」
「あー! もう、ハク! 刀納めて!! ベトベトサンも素人に向かってそういうアブ……、危ないことはしないで!」
「セツ班長、耳から何かが入り込む玄人なんているのでしょうか?」
「ふ、副班長! い、ま気にする所は、そこ、じゃない、と、思うです!!」
突如として部屋のなかにわちゃわちゃした空気が訪れる。それを掻き消すように、深いため息が響いた。
几帳の内側から。
一同の視線が一気に集まるなか横たわっていた人影がおもむろに起き上がる。
そして。
「まったく、もう」
膨れた腹を支えながら、煩わしそうな表情を浮かべた咬神の娘が姿を現した。
「……やあ、姫君。久しいね」
セツが社交的な笑みを浮かべると、娘にも同じ笑みが浮かんだ。
「ええ。お久しぶりです、セツ班長。それに」
俄かに鋭くなった視線がハクに向けられる。
「ハク様も、直接顔を合わせるのはお久しぶりですね」
「あ、ああ……」
「ふふ、お父様からの依頼であれば来ないわけにはいきませんものね」
「いや……、そうじゃなくても……、俺は……」
「あら? 私が恥を忍んで文を送っても、『君にはもう夫がいるんだろう』なんて返事しかくださらなかったじゃないですか」
「……」
あからさまな誹りに黙り込む姿を見かねたのか、ベトベトサンが体の一部を手のように変えて伸ばした。
「ひひっ、姉ちゃん。痴話喧嘩を邪魔して悪いが、ちょっと聞いていいか?」
「あら、なんですか? 泥濘の君」
「たいそうな渾名をありがとよ。それで、出てきたってことはオレらの話聞いてたんだろ。その胎の中身、どうしたいんだ?」
「ふふ。決まっているではありませんか。産み育てますよ」
白く華奢な手が膨らんだ腹を愛おしげになでる。
「だってこの子の翅は、きっと私をここから連れ出してくれるもの」
嫋やかな顔には虚ろな笑みが浮かんでいる。
たしかに娘には意識があるようだ。しかし。
「……」
軽く目を伏せたセツが無言で首を横に振る。
正気とはいったいなんなのか。そんなことを考えながらリツは小さく頷いた。
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