第20話 ろくでもなくても離れがたい夜
その後、リツたちは報酬を受け取り転移術でフラフラになりながらも詰所に戻った。禊を兼ねた湯浴みやら報告書のまとめやらをしているうちに日は落ち空には丸い月が浮かんでいた。
今日はひどく疲れているため報告書を提出して早く寝てしまいたい。
そう思っていたのだが──
「痣になってるところが脚に二ヶ所、腕に一ヶ所、あとはソシエ殿に掴まれたところは浅く傷になってるね」
「そうですか」
「他は診たところ大丈夫そうだけど、手首足首が回らないとか、頭が痛いとかそういうのはない?」
「いえ、特には」
「ならよかった。痣と傷には膏薬を塗っておくようにね」
「ありがとうございます」
「ふふ、気にしないで。これも夫の勤めだからね」
──部屋に入るなりセツに手を取られ、任務で負った怪我の診察を受ける羽目になっていた。
否、診察だけで終わるのならありがたいだけで問題はなにもない。
「さて、診察はおしまいだけど……、このまま触れていてもいいかな?」
向かい合った目に燭台の火が映り、微かに橙に染まった手が頬に添えられる。このまま部屋に戻ることは難しいだろう。
「……仰せのままに」
「おや、あまり気乗りしていない顔だね?」
「あ、いえ、そういうわけでは」
心の内を見透かすような笑みに肩が跳ねた。なんとか取り繕っておきたいが、疲れも相まって上手い言葉が出てこない。
「ふふ、しらべは嘘が下手だね。一日のうちに色々あったからしかたないか」
「……すみません」
「気にしないで。ただ、肩の怪我の件で肝が冷えたから、このまま部屋に帰したくないかな」
「……」
「せめて、側にはいてほしいと思うんだけど……だめ?」
「……かしこまりました」
「うん、ありがとう」
頬に触れていた手が頭に移動し、ひとなでするとゆっくりと離れていった。
「それにしても、今日のは何とも形容しがたい依頼だったね」
「そうですね。ひとまず、武光殿のほうにもこちらにも大きな被害がなくて幸いでしたが」
「まったくだね。とりあえず武光殿に他の退治人結社向けの紹介状を渡したし、路頭に迷うこともないだろう」
「そう願います。ただ、メイとのやり取りは今までより難しくなってしまうんでしょうね」
「たしかに。まあでも、そのへんも平気なんじゃないかな」
「そうでしょうか?」
「うん。だって、さっきメイが報告書出しにきたときにもそんな話題になったけど、『少し寂しいですが、兄様が思うままに生きていけるようになったんだし、僕が連絡を逐一して邪魔になってはいけませんから』って言ってたし」
「そうなんですか?」
「うん。あそこは良好な関係だけど、どか割り切ったかんじだからね」
「そうなんですか」
ふと、都にいる妹の顔が頭に浮かんだ。文の返事がないのは、妹も同じように思っているからかもしれない。
ただ、自分を慕って後をついてまわっていたころを思うと少し寂しくはある。
「正直なところ、ああいう関係は少し羨ましいかな」
にわかに目の前の笑顔に影がさした。
思い返してみると依頼を説明していたときに、兄との仲があまり良くない、という話があったはずだ。
「……」
メイの家庭事情は事を滞りなく進めるめに事前に知っておく必要があった。
一方、目の前いる男の素性は知らなくても滞りなく過ごしていけている。
部下としても、妻としても。
「ふふ、そんな顔しなくても我家の子供のなかで残っているのは私だけだよ。だから、兄弟げんかに巻き込まれる心配ももうないはず」
「いえ……、そういった心配をしているわけではなく」
「じゃあ、どういう心配をしているのかな?」
「……」
第七支部に来てからそれなりに月日がたち、褥をともにしたことも一度や二度ではない。それでも、家族や素性についての話題は一度も出なかった。それなら、自分には教える必要がない事と思っているのだろう。
あるいは、自分を教える必要がない人間だと思っているかだ。
それでも目の前の相手は、自分を囮にして逃げろ、という言葉を残酷だと評している。そんな昨夜の記憶が重い唇を開かせた。
「……私はセツ班長のこと、何も知らないのだなと改めて思ってしまいまして」
「何も知らない?」
「はい。ご兄弟のこととか」
「……あ」
少しの間をおいて、セツは軽く目を見開いた。
「えーと、そう言えば話してなかったかな?」
問いかける表情はあきらかに狼狽えている。
つまるところ。
「……すっかり話した気になっていた、ということなんですね」
「……ごめんなさい」
深々と下げられた頭を前に、言いようのない脱力感が襲ってくる。
さっきまでの逡巡は一体なんだったのだろう。そう思っていると、向かい合った顔に苦笑が浮かんだ。
「まあ実際のところ、家についてあんまり詳しく教えるとしらべを厄介ごとに巻き込みかねないから避けてた節もあるんだけどね」
「そうでしたか」
「うん。でも、簡単な家族構成くらいは教えておこうか。父は存命、母は初冠のころに他界、兄弟は姉が一人と兄が一人だったけど……、姉は私が物心つく前任務中に消えてしまった」
「消えた?」
「そう。髪の毛一本残さず文字通り消えた。退治人としてかなり優秀だったらしいから、遺された兄にかなり重圧がかかったみたいだね」
どこか遠くを見つめる目に苛立ちの色が浮かぶ。
「その反動なのか私に対してはかなり横暴でね。大事にしていた本とかを奪っては『お前が弱いのが悪い。返してほしければ力尽くでやってみろ』とかいいながら、最終的に破り捨てたり壊したりだったよ」
「それは……、災難でしたね」
「まったくだね。しかも、私が一番欲しかったものを横取りしたうえ雑に扱った……それが一番許せなかった」
不意に、灯に照らされた顔に苛立ちとは別の影がさした。
「だから、任務中に死んだって聞いたときは、笑いが止まらなかったよ。どう? 私もなかなかにろくでもない人間だろう?」
「……」
たしかに、亡くなった人間を悪し様に言うことはよくないことだとされている。それが肉親ならなおさらだ。
それでも、それがあまり良好な関係ではない相手だったとしたら。
あのとき、本心ではどう考えたのか。
ほんの数ヶ月の凄惨な出来事のはずなのに、今はもう動揺を感じたというくらいしか思い出せない。
「……自分を害するような相手なら、同情を感じないこともあると思います」
「……そっか」
「はい。それに」
自ずから視線が文机に向いた。それに気づいたセツは軽く肩を跳ねさせる。
薄橙色の灯が映る白紙の報告書。
怪我の診察をしていた事を差し引いても、本来ならもう少し進んでいなくてはいけないはずだ。
「セツ班長がろくでもないことは、重々承知しております」
「……ごめんなさい」
「謝る暇があるなら、報告書をしあげてしまいましょう。私も手伝いますから」
「ごめん。助かるよ」
セツの顔にいつもの軽薄そうな笑みが浮かんだ。それでも、いつもより翳りがあるのは隠しきれていない。自分の振った話題が原因ということは明白だ。
「……かまいませんよ。ろくでもないと分かっていても、放っておきたくはないと思ったのは私ですから」
「……ふふ。ありがとう。しらべ、愛してるよ」
穏やかな微笑みの後、薄い唇が軽く口に触れる。
「だから今は互いの気持ちを育む事を優先して、報告書はその後に……」
「そうした場合、体力的に私の手には負えない事態になるので、報告書は全てご自分で仕上げてください」
「あはは、冗談だって。それじゃあ、早いところ終わらせてしまおうか」
「そういたしましょう」
いつもの軽薄な笑みから翳りが払拭され、リツは胸を撫で下ろした。
空には相変わらず、丸い月が浮かんでいた。
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