第9話 そういうわけじゃない的な話題たち
夕間暮れの林の中、リツは手首から血を流し胸にもたれるセツを掻き抱きながら短刀を構えた。
「……また、というのは?」
鋭い眼光が対峙するあやかしを睨む。すると、牙のこぼれる口から再び煩わしそうな深いため息が漏れた。
「どうでもいいだろ、そんなこと。それより、早くそれを渡せ。そうすりゃ、お前まで食わないから」
「断る」
「まったく、めんどうなやつだ。わかるだろ、勝ち目がないことくらい」
濁った金色の目から憐れみを帯びた視線がむけられる。
たしかに正面から立ち会えば、しなやかな毛皮に覆われた逞しい腕に短刀を折られるのが目に見えている。
しかし、そのとき。
「それでも向かってくるなら、容赦しな……」
「ベトベトサン! あちらへどうぞ! えっと、急急如律令です!」
林の中に少年の声が響き……
「ひひっ。任せときな坊ちゃん!」
どこか中性的な声とともに、梢から赤黒い粘液の塊のようなものが降りそそぎ……
「うわっ!? 気持ち悪っ……うぐっ!!?」
粘液の塊のようなものに絡みつかれた熊の腕を持つあやかしが、体勢を崩して倒れ……
「お、お二人とも! ご無事ですか!?」
……粘液が降ってきたのと同じ梢から、札を手にしたメイも舞い降りた。
「うん、大丈夫、大丈夫。ね、リツ?」
狩衣にしがみつきながらセツが首をかしげる。リツは軽くうなずくと、粘液に絡まれてジタバタするあやかしに視線を送った。
「大丈夫ではありますが……、ベトベトサンってあんなかんじでしたっけ?」
「あー、やっぱりリツもそこ気になる? 私もなんかあのベトベトサン、ベトベトサンとはちがう気がしてたんだよね」
「ふぇぇっ!? ち、違うんですか!? で、でもベトベトサンちゃんとベトベトしてますよ!?」
「たしかにベトベトしているように見えますが……、たしかベトベトサンというのは足音がベトベトしているからベトベトサンなのであって、身体がベトベトしているからベトベトサンというわけではなかったですよね? セツ班長」
「うん。後ろからベトベト足音がするのに姿が見えないっていうのがベトベトサンだから、姿が見えてる時点でベトベトサンと呼んでいいのかはちょっと疑問だね」
「えぇぇっ!? じ、じゃあ、ベトベトサンはベトベトサンじゃないんですか!? こんなにベトベトしてるのに!?」
「たしかに……、ベトベトしたあやかしなのでベトベトサンと呼んでも間違いではない、のでしょうか?」
「そうだねー。メイもずっとベトベトサンって呼んでるし、うちではベトベトサンはベトベトサンに間違いないっていうことでいいと思うよ」
「そ、そうですよね!! ベトベトサンはベトベトサンですよね!!」
ベトベトという擬音の全体性が崩壊しつつある会話のなか、またしても煩わしそうなため息が響いた。
「お前ら、退治人か。とりあえず、事情を話してやる。だから、こいつを退けてくれないか? あと、その頭が痛くなってくる話をやめてくれ」
「ひひっ! どうするよ坊ちゃん? ちなみに、俺のことは好きに呼んでくれたままで構わないぜ」
ベトベトサン(仮)の言葉を受けて、オドオドとした目が二人を見つめた。
「え、と。最初の話ならベトベトサンに食べてもらおうと思ったんですが、多分、それじゃ、ダメ、ですよね?」
サラリと放たれたえげつない発言に内心冷や汗をかきながら、リツは軽くうなずいた。
「はい。まずは話を聞くということでいいですよね?」
「うん、そうさせてもらおう。どうやら、いよいよもって被害者のご家族からの依頼を優先させないといけないかんじだし」
胸にしがみつく顔に苦笑いが浮かぶ。やはりこの依頼はただの退治で終わらないようだ。
「かしこまりました。ところでセツ班長」
「うん? なにかな、リツ?」
「そろそろ離していただかないと、傷の手当てができないのですが」
「えー。もうちょっと幸せな感触を堪能させてくれてもいいじゃないかー」
不服そうな顔とともに、こころなしか身体がさらに密着する。緊張感のない態度に視線が自然とあやかしたちへ向いた。
「かしこまりました。えーと熊? の方とベトベト? サン、ちょっと齧ってもいいので、このくっついてる人を剥がしていただけますか?」
「そんなっ!? リツってば酷い!! あやかしに齧られるとめっちゃ痛いってこの間教えたじゃないか!!」
「そ、そうですよ副班長!! し、仕事中に破廉恥極まりないロクでもない班長だからって、べ、ベトベトサンに溶かしてもらうのは、やりすぎですよ!」
「ひひっ! あの姐ちゃんはそこまで言ってないぜ坊ちゃん! それに、俺はあやかしの血が混じってるやつ以外は食いたくねーんだぜ!」
「お前らもろもろ分かったから、話を進めさせてくれ」
かくして、林の中は一気にわやわやした空気に包まれた。
※※※
その後、一同は小屋に入りあやかしから話を聞くことになった。
「それで、この前人間を食べたときの話だったな?」
「はい、お願いします」
面倒そうな声にリツは軽くうなずく。 その隣で手首に布を巻いたセツがヘラヘラと笑んだ。
「結局襲って食べましたって話なら、またベトベトサン呼んでもらって今度こそ仕留めさせてもらうからねー」
「えぇっ!? た、短期間でそんなに何度も呼び出したら、ベトベトサンに、わ、悪いですよ!! それに、この方あんまり美味しくなかったらしいので、お、お腹壊しちゃったら大変ですし!!」
隣で巻き起こるわちゃわちゃした会話に、自然と深いため息がこぼれた。
「セツ班長、いちいち話の腰を折らないでください。メイも、心配するところはそこじゃないと思いますよ」
「はーい」
「す、みません……」
ションボリする二人をよそに、疲れた表情があやかしに向いた。
「すみません。話を続けてください」
「お前も大変そうだな。ともかく、この間人を食ったのはまだ寒かったころだ。冬籠してたら急に外がうるさくなってな。『せっかく見初めてやったのに』だの、『死んだほうがまし』だの」
ため息まじりの話に軽く頭が痛んだ。どうやっても合意の上で逃げ出した者たちの話には聞こえない。だとしたら、考えられることは。
「まあ、眠いから放っておこうと思ったんだが、戸のすぐ外から断末魔の悲鳴が聞こえてきたんだよ。で、外に出たら背中が
小屋の中の空気が一気に張り詰めた。
「男はすぐに逃げたよ。女のほうはどう見ても助からなそうだった。で、無駄にするのもなんだから、死ぬのを待ってから食った」
「……ま、そんなことだろうとは思ってたけどね」
いつの間にか、セツの顔から一切の笑みが消えていた。
「ただ、まだ君を完全に信じるわけにはいかないかな。口から出まかせを言ってるだけかもしれないし」
「まあ、退治人にあやかしの話を信じろというほうが無理な話か。なら」
あやかしは煩わしそうに立ちあがると部屋の隅に移動し、置いてあった葛篭から衣を取り出した。
「これを見ろ」
広げられた背は斜め一文字に切り裂かれている。硬い毛に覆われた手にも鋭い爪は生えているが、あきらかに遺された刀痕とは形が違う。
「まだ信じられないというなら、弔った骨を掘り起こしてくる。同じ傷がのこっているからな」
「……いや、その必要はないよ。疑って悪かったね」
化粧の施された顔に笑みが戻った。
「なら、やっぱり被害者のご家族たちの依頼を優先することにしようか。二人とも、それでいいよね」
「は、はい!」
メイが姿勢を正しながら返事する。
リツもその提案に反対するつもりはない。
「リツ、顔色が悪いね。ここまできたら私たちだけで片付けられるから、先に戻って大丈夫だよ?」
「いえ。問題ありません」
「そうは言っても心配だし、帰ったほうがよくない?」
「セツ班長、無理やり帰そうとしてません?」
「う」
ギクリという音が実際に聞こえそうなほど、向かい合った顔に動揺が浮かんだ。
「……やはりそうですか。ご家族からの依頼というのも『娘の無念を晴らしたい』という概要しか教えていただいていませんもんね」
「あー、えーと、忘れちゃってたって、ことにしたいかなぁ、なんて?」
詳しい事情はわからないが、忘れていたわけではないのは間違いないだろう。
この場所なら認めてもらえるかもしれないと思ったのにと、目頭が軽く熱くなってくる。
「……ごめん。私が悪かった」
いつになく神妙な声とともに軽く肩が撫でられた。
「リツのことを信用していないわけじゃないんだ」
バツの悪そうな表情から溢れる言葉に嘘は感じられない。
「ただね。前にも言ったとおりご家族からの依頼は断れないだけど……、正直なところリツには関わってほしくないんだよ」
「……なぜ、そんなこと思ったんですか」
今までも危険な任務は数多くこなしてきた。それなのに、多少のことで怖気付くと思われているのだろうか?
そんな疑問が浮かびすぐに消えた。
「うん、だってね。今回の依頼はある意味人を殺すのとおなじことだから」
予想外の言葉に、こぼれかかった涙が引いた。
「……人を殺す?」
「うん、そうなんだ。もちろん、直接あのおっさんを手にかけるわけじゃないけどね」
軽くうなずいた悲しげな笑みには、やはり嘘偽りがあるようには見えなかった。
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