⑱霧海の彼方へ


東雲しののめはレイラを船縁ふなべりに横たえると、その手から海図かいずを抜き取った。


「なんなんだ、貴様らは……!」


腕の痛みにうめきながら、じりものの男が激昂げっこうした。

彼には理解できなかった。計画は万全だったはずだ。

なのになぜ、自分は今、血を流したおしているのか……。


「なぜいたずらにあらがう!」


たった一隻の小さな貿易船ぼうえきせんに、なぜ国家公認の観測艦隊かんそくかんたい翻弄ほんろうされなければならないのだ。


なぜ、脆弱ぜいじゃく青鬼ユニルが、主人である赤鬼オグルに噛みつき、あまつさえ対等に接戦せっせんを演じることができるのだ。


なぜ、こいつらは叩きつぶしても叩き潰しても、そのひとみの光を失わない……。


「貴様らの抵抗など、無駄なことだとわからんのか! たとえその海図が手に入らなくとも、すでに西大陸ユーラヘイムには本国ほんごくの息のかかった者が何人も入り込んでいる。侵攻しんこうは時間の問題だ!」


男は立ち上がり、無事な方の腕で東雲しののめを指さした。


「貴様がぞくとりでを|荒らしたことも、いずれは上へ報告がいくぞ!」


男のにごった双眸そうぼうを描いた。

さあ絶望しろ、とそう言うのだ。


しかし、東雲しののめにとってはその程度の状況など、どこ吹く風である。


敵国に間者かんじゃを送り込むなど、戦国の世では当たり前のことであるし、仮に赤鬼からおたずね者として追い回されたとて、それがなんだというのだ。


「まぁそん時は、そん時だ」


「な、に……?」


ダネルは唖然あぜん東雲しののめ凝視ぎょうしした。

信じられない異物いぶつを見るような眼であった。


しかしてその瞳がまたたきを思い出すより先に、東雲しののめは転がっていた片刃刀かたばとうり上げ、駆け抜けるように男の動脈どうみゃくを斬り裂いた。


「仕上げといこうか」


ふいに、一陣いちじんの風が船のまわりを取り巻いた。

巨大な白壁しらかべのごとき雲海うんかいがすぐそこにそびえたっている。


迷路海流めいろかいりゅうの入り口が、小さな船をさそうように、暗い門を開けて潮風しおかぜを吸いこんでいた。

静寂せいじゃくにたゆたっていた海も次第しだいにうねりを増し、が音をたててひるがえった。


ここにきて赤鬼オグルたちは焦りをみせた。

もはや処断しょだんうんぬんと遊んでいる場合ではない。


さやりが連鎖れんさした。

青鬼たちの血で赤黒く光る刀身とうしんが、走りくる黒衣こくいの男へねらいをさだめる。


「海図をわたせッ!」


焦燥しょうそう浮足うきあしだった彼らは、一斉いっせい東雲しののめへと襲い掛かった。

こうを急ぐあまり、血走ちばしった金の瞳が色褪いろあせた紙の束へ釘づけとなっている。


「そんなに欲しけりゃくれてやる」


東雲しののめは腕を大きく振りかぶって、分厚い書巻しょかんを天高く放り投げた。


瞬間、すべての視線が驚きとともに上空をあおいだ。

おろそかになった足もとを、黒い残像ざんぞうがすり抜け、直後に新たな鮮血せんけつが甲板をらした。

足のけんを斬られたのである。


ぐらり、と巨躯きょくかたむいたのと同時に、雷光らいこうのごとき大音声だいおんじょうとどろいた。


「海へ突き落せ!」


古兵ふるつわものの航海士の一声に、修羅場しゅらばを戦い抜いた青鬼たちは破竹はちくの勢いで飛び出した。

負傷者とは思われぬ気勢きせいで赤鬼にしがみつき、手の平へ歯をたて剣を奪い、数人掛かりで押し倒す。


激戦げきせんによってあちこち欠損けっそんした船もまた、あるじたちの最後の抵抗に加勢した。

波にあおられて船体せんたいが揺れ、足のけんを傷つけられた赤鬼たちはたまらず転倒した。


いかに剛腕ごうわんほこる肉体であっても、下半身の支えがなければ、ただデカイだけの木偶でくである。


さらなる血潮ちしおが風に舞い、大きな水しぶきがいくつもあがった。


こうして、雲海うんかいの謎を記した叡智えいちの書は、またしても濃厚な灰白かいはくきりのむこうへと、その姿を消したのである。





――――――――――――

間者かんじゃ=敵を密かに探る者。スパイ


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