⑰臆病者の駆け引き

レイラは腕をすっと横に伸ばして、血みどろのいさかいを引き起こした元凶げんきょうたる海図を高く掲げた。


「その人たちを解放して、船を明けわたしなさい。さもないと、この大事な紙っきれを海へ放り投げるわよ」


彼女は本気だった。

にわかに緊迫きんぱくした沈黙が駆け抜ける。


しかしすぐに、ダネルは悪意に満ちたしのび笑いをただよわせた。


「慣れないマネはよせ。お前は本国ほんごくを裏切ることはできん、そうだろう?」


「…………」


警戒けいかいした野良猫をさとすように、一歩、また一歩距離をつめる。

そのつどレイラの顔から血の気が引いた。

目に見えて身体がふるえ出し、ひたいたまのような汗が浮かぶ。


それは精神的に追いつめられただけでは説明のつかない変調へんちょうであった。

次第しだいに呼吸があらくなり、脂汗あぶらあせたきのようにほおを伝う。


レイラはえがたい苦痛をまぎらわせようと、固くこぶしを握りしめた。


「過ぎたよくは身を滅ぼすぞ。現に立っているのもやっとだろう」


「……ええ、だからうっかりフラついて、海図と一緒に落ちちゃうかもね」

 

レイラは後ずさりして、さらに不安定な先端せんたんへ自ら立った。

これ以上近づけばもろとも身を投げるという意思表示であった。


これにはダネルも苦々しく立ち止まざるをえない。


実のところ、鬼という種族はそうじて泳ぎが得意ではないのだ。

赤鬼はその驚異的な密度の筋肉が浮力ふりょくを殺すためであり、青鬼の場合は河や海へ逃亡しないよう日常から泳ぐことを禁じられ、水に入った経験がない。


よっていくらここがなぎの海域であろうと、海図が海の藻屑もくずとなれば、彼らに回収するすべはない。

それを承知しょうちの駆け引きであった。


しかしダネルは再び歩みを進めた。


「っ、ちょっと!」


「あんな連中のために死ぬ気か、レイラ?」


「!」


すらりと抜かれた片刃刀かたばとうが、レイラを徐々に追い込んでいく。

ダネルは彼女の瞳の奥に、死への恐怖がくすぶっているのを見抜いていた。

気丈きじょうに振る舞ってはいても、彼女の本質は普通の少女となんら変わらず臆病おくびょうであることを、男は知っていた。


最期さいごにもう一度だけチャンスをやろう。海図を渡せ、そうすればお前だけは助けてやるぞ」


あまりにも嘘臭うそくさく、あらがいがたいさそいである。


男が近づくたびに尋常じんじょうではない汗が流れ、意識も朦朧もうろうとしはじめた。


だがしかし、一瞬船の真下ましたへ視線を落としたレイラは、それらすべてをはねつけるように一笑いっしょうした。

男の顔が冷ややかにゆがんだ。


「返答は?」


「……クソらえ、よ」


どこかで聞いたような台詞せりふを吐き捨てて、レイラは舳先へさきから飛び降りた。


あっと誰もが息を飲んだ。

まさか本当に死を選ぶとは思っていなかったダネルも、血相けっそうを変えて落下する彼女の腕をつかもうと身を乗り出した。


その瞬間、黒光りする一閃いっせんが飛び出し、ダネルのたくましい腕の肉をえぐった。

鋼鉄こうてつもりが彼の利き腕を串刺くしざしにしたのだ。


驚愕きょうがくの悲鳴が天をき、ダネルはもんどりうって倒れた。

固唾かたずんで見守っていた者たちに、動揺と混乱の波が広がる。


触れれば破裂はれつしそうなほどに張り詰めた空気をきわけて、その男は物顔ものがおで甲板へとおどりあがった。


「あー、どっこい」


重い、という文句をかくしもしない表情で、東雲しののめ小脇こわきに抱えたレイラを一瞥いちべつし、いで中央に捕らえられている青鬼たちを見やった。


たがいに全身傷だらけである。

甲板のあちらこちらに横たわる亡骸なきがらの数が、ここで起こった闘争とうそうの激しさをまざまざと語っている。


かたわらでは、息もえな少女が、鬼気ききせまる様子で古びた海図を抱きしめた。


東雲しののめは現状を正しく把握はあくした。


「仕事か? かねヅルむすめ


「っ、アンタ、いつも来るのが遅いのよッ」


立つのもままならないくせに威勢いせいのいいにくまれ口を投げつけられて、東雲しののめ思わず笑った。

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