⑬ヒグラシ


ひぐらし……?」


呆然ぼうぜんとこぼれ落ちたつぶやきは、はちの巣をつついたように騒ぎ出した鬼どもの叫声きょうせいによってかき消された。


赤鬼たちは怒髪天どはつてんをついて謎の影へ襲いかかった。


四方から振り抜かれる長刀を、影は流水のごとき身のこなしで回避した。

奇しくもその動きは、東雲しののめが先ほど甲板で演じた立ちまわりと瓜二うりふたつであった。


――否、影が東雲しののめを真似したのではない。

東雲しののめが、影の真似をしていたのだ。


繰り出される攻撃を円の軌跡きせきでいなすそのわざは、かつて東雲しののめが幼い頃に、ある男から見よう見まねで盗み覚えたものであった。


見間違えるはずがない。

鷲鼻わしばなのひょろりとした猫背ねこぜ、人よりも長い手足。

東雲しののめと同じ年に、彼よりも少しだけ早く里入りした〝音無おとなし〟の男である。


そして、あのまわしい月夜の晩に東雲しののめを殺すためつかわされた十三人のにんのひとりであり、――東雲しののめが最後に、その喉笛のどぶえをつらぬいて殺したはずの男であった。


「なぜアイツがここにいる……」


いや、むしろここが地獄であるならばそれも必然であろう。

この世界にとされた当初、しきりに不思議がったはずだ。

なぜ自分以外の人間がいないのか、と。


だとすれば新たな疑問がく。

なぜ自分はこうして五体満足ごたいまんぞくの姿であるのに、ヤツは、否、ヤツら・・・はあのような人ならざる様相ようそうに身をやつしてしまったのか……。


東雲しののめはすでに、ヘドロの化け物の中にひしめいていたのっぺらぼうたちが、同じく地獄へ堕ちた亡者もうじゃの成れの果てであると、直感的に確信していた。


ヘドロから産み落とされたかたまりのひとつがひぐらしであったということは、他の無数の顔もまた、残りの追い忍たちなのだろうか。

それともまったくの赤の他人だったのだろうか。


どちらにせよ結局は同じ結論にいきつく。


トトもレイラも、あの島の者たちも、人間にったことはないと言っていた。

ならば、死後の世界において、生前と寸分すんぶん変わらぬ血肉ちにくを得た東雲しののめこそ例外なのだ。


なぜそのような差異さいが生じたのか、そこから先は人知じんちを超えた領域であるためにはかりかねるが、少なくとも自分が砂漠から一粒の砂金を探し当てるくらいのとんでもない幸運の上に立っているのだと、漠然ばくぜんと理解した。


考えがまとまらぬうちに、船体がぐらりとかしいだ。


ヘドロの化け物に破壊させた船底ふなぞこがいまだふさぎきれず、浸水しんすいが船の重心をおびやかすほどに進行しているらしい。

切迫せっぱくした状況をうけて、武装ぶそうした赤鬼たちは総出そうでで得体の知れない侵入者しんにゅうしゃを取り囲んだ。


東雲しののめは思わず身を乗り出した。


ひぐらしは、伊賀の里でもずば抜けて対人格闘術にひいでたしのびである。しかしそれはあくまで人間が相手の話であった。


他者をほふるために生まれた赤鬼に数で押し切られては、もはや技量ぎりょうで劣勢をくつがえすことなどできはしない。

唯一の活路かつろは包囲網を脱し、戦局をこちらが優位になるよう立て直すことである。


しかしどうしてだか、ひぐらしは赤い暴力の壁に真っ向から突っ込んでいった。


東雲しののめ片眉かたまゆを跳ね上げた。


忍刀しのびがたなした黒い刃が赤鬼の喉笛のどぶえをつらぬくと同時に、いくつもの長剣がひぐらし串刺くしざしにした。

腕が落ち、首が飛んだ。


東雲しののめはえもいわれぬいきどおりを覚えた。

まったくもってヤツらしくない、無様ぶざまな幕引きであった。


床に転がったからだがどしゃりと崩れてヘドロに戻る。

赤鬼たちは汚物おぶつに目をむけるような態度で、気味悪きみわるげに何度もヘドロを突き刺した。


しかし次の瞬間――、ヘドロから数多あまた鋭利えいりな爪が飛び出した。


ひぐらしを串刺しにした赤鬼たちが、そっくり同等のむくいを受け、床に倒れこむ。

恐慌きょうこうとざわめきが包囲の輪を乱した。

皆、困惑した表情でヘドロから一定の距離を置き、長刀を構え直した。


散らばったヘドロは、ずるずると床をい、みるみるうちに再び人のかたちを成していく。


不死身か、と誰かが呆然ぼうぜんと呟いた。


一度死んだ相手を不死身と呼ぶのはいかがなものだが、それはさておき、この泥人形どろにんぎょうをとめる手立てがないというのはなかなかやっかいである。


本来忍者というものは、あらゆる戦闘を避け、敵に姿を現すことなく翻弄ほんろうする術を好む。

貴重な人材が死ぬことによって里がこうむる不利益や、計画の遅れを極力最小限におさえるためだ。


しかしながら、生前のひぐらしにあたえられた忍務にんむのほとんどは、会敵かいてきと交戦が主目的であった。


音無おとなし〟ならばいくらでも補充がきく上に、なによりこの男自身が、そのような忍務を好んで欲していたためである。


立ちあがった泥人形は、黒々とした瞳で生者の数をかぞえると、ぞっとするような笑みをたたえた。

出口のない洞穴どうけつのような口が開き、怖気おぞけをもよおす声が鼓膜こまくをねぶる。

ありったけの憎悪にれたその音は、赤鬼たちには意味のある言葉として聞き取ることができなかった。


しかし東雲しののめにはわかった。

たった一言、殺してやる――と、そう言ったのだ。


その一念いちねんに突き動かされるように、男はまたひとつ命を斬り裂いた。

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