⑩漆黒の怪異、再び

死の臭気においというものがある。

戦火の狼煙のろし、策謀の吐息といき馬蹄ばてい地鳴じなり、人々の身の内に巣食う殺意、害意、怨嗟えんさのまなざし――。


そういったものを敏感に察してはかすみのように姿をくらまし、時に逆手にとって利用するわざを〝微兆びちょうの術〟という。


とりわけ、東雲しののめは負の想念そうねんというものに対する嗅覚きゅうかくが人一倍鋭敏えいびんであった。


幼少の頃より、忍務にんむだけでなく里で生活する日々においても、自分へむけられる敵意に囲まれながら生きてきたためである


――だからこそ勘づいた。

船室で目が覚めた時からずっと、船の底にアレがいるということを。



   *     *     *



波ひとつ立たない穏やかな海の下、よどんだ気配がおどろおどろしくわだかまっている。


水温は暖かであった。

しかしそいつが張りついている場所だけは、船底が白く凍結しているのが見てとれる。


東雲しののめは飛び込みざまに大きく水をいた。

途端に、背後からうなるような咆哮ほうこうとむき出しの殺意が追ってくる。


(来やがれよ……!)


黒いヘドロの化け物は、一度目の邂逅かいこうをなぞるようにひしゃげた爪を振りかざし、一直線にこちらへむかってきた。やはり速い。

東雲しののめはなんとか化け物に追いつかれる前に、赤鬼の船舶せんぱくの真下へ泳ぎついた。


誤解を招きかねないため弁明をそえておくと、東雲しののめは化け物に会いたくて海へ飛びこんだのではない。

彼奴きゃつに絞めあげられたあざはいまだ赤黒く残っているし、あやうく首と胴がさよならしかけたのは、つい昨日の出来事である。

できれば二度とお目にかかりたくなどなかった。


だがしかし、たとえヤツがおのれの命を欲す死魔しまであったとしても、そこに生き延びるための活路があるならば、東雲しののめは潜らねばならない。


死を誰よりもきらいながら、おくせず絶望のふちぎりぎりを走り抜けることができる胆力たんりょく

それこそがこの男の強みであった。

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