⑨天地人

「百かぞえる内に作戦を考えろ」


天の時、地の利、人の和――。


いくさという盤上ばんじょうにおいて、これら三利を得ることが勝利への秘訣ひけつといわれている。


しかしながら現時点において、以上すべてが赤鬼勢力に掌握しょうあくされてしまっていた。


東雲しののめたちが生き残るためには、まずこれらを奪い取らなければならないのである。


特に天の時は、艦隊かんたいがこちらの船と接舷せつげんした時点で、赤鬼との交戦へとなだれこむ。


一方こちらの戦力は、武器を持ったこともないような者が大半の青っちろいもやし・・・鬼 数十名と、ネズミが一匹、そして伊賀では下の下である捨て石がひとり……。


まともに応戦してもまず勝ち目はない。


すなわち、いかに素早く行動できるかが運命のかぎを握っていた。


だがしかし、地の利もまた、この小さな部屋をのぞいた盤上のすべてが赤一色で埋め尽くされている状況である。

逆転の策を練らなければ、勝ちすじなど生まれようもない。


最後の頼みのつなは、人の和だが――。

これは人徳じんとくある者がなせるわざであり、残念ながら東雲しののめにはないものだ。


しかし幸いにして、この場にはふたりの優秀な人材がいた。

トトと初老の航海士である。


船の内部構造を誰よりも知り尽くしている老人は、即座にとすべき場所と的確な行動経路を設定し、トトは弱者が赤鬼相手にとるべき戦法を短時間で指南しなんした。


戦闘に不慣れな青鬼たちの多くは、トトがろうから解放した者たちである。

ゆえに彼らは疑念を抱くことなく、真剣に小さな戦士の教鞭 きょうべんへ耳をかたむけた。


海賊のとりでから逃げおおせたという真新まあたらしい成功体験が、彼らの間に確かな信頼と勇気と団結力を生み出していたのだ。


東雲しののめはほくそ笑んだ。


むろん、勇気と武芸ぶげいは同等にならぶものではないが、いつだって絶望をひっくり返す嵐の目は、むこう見ずな蛮勇ばんゆうである。


かの孟子もうしをして、「天の時は地の利にかず、地の利は人の和に如かず」とうように、人のきずな強靭きょうじん一本鎗いっぽんやりとなりて、時にり固まった運命の岩盤がんばん風穴かざあな穿うがつ。


そこから一陣いちじんの風が吹き込めば、戦況の流れは変わりゆくだろう。


――人の和は得た。

ゆえに東雲しののめのするべき仕事は、地の利をこちら側へ引き込むことであった。



   *     *     *



突如として、耳をつんざくような叫び声があがった。


部屋の内側で、発狂した捕虜ほりょ同士の殺し合いが起きたのだ。


もちろん演技である。

しかし全数十名による迫真はくしん熱演ねつえんは、見張りの二人に扉を開けさせるには十分すぎるほどの衝撃をあたえた。


じりものの男たちは、中をのぞいた瞬間に声を出す間もなく繰り出されたなわによって足をすくわれ、数人掛かりで咽喉のどめられ、四肢ししの自由を封じられた。

捕虜の拘束こうそく用に使われていた縄である。


そしてあわれな貧乏くじを引いた二人が事態を把握するよりもはやく、東雲しののめは飛び出した。


老人に教わったとおりに船内を駆け抜け、甲板へと踊り出る。


んだ陽光ようこうが照らす真昼のだだっ広い空間を、黒い身なりの男が走るのである。

当然目立つはずであったが、足音もなく一切の無駄をはいした風のごとき走行そうこうに、東雲しののめが役割をひとつ終えるよりも早く気づけた者は、わずかひとりであった。


運悪く真正面から彼と対峙たいじすることになった青鬼ユニルの男は、律儀りちぎにも「脱走者だ!」と叫んだ後に、腰の半月刀はんげつとうを奪われ咽喉のどを斬り裂かれた。


一斉に甲板にいたすべての視線が集まる。


しかしその時にはすでに、東雲しののめはひと仕事かたづけていた。


帆綱ほづなが切られ、停留ていりゅうのためにたたまれていた白いが音を立てて広がった。


あいにくとなぎの海域である。

それでもささやかながらに吹く風は、帆をゆるやかにふくらませ、船がわずかに前進をはじめた。


艦隊かんたいとの接舷せつげんまでもう少しというところであった。


「時をかせげ!」


遅れて甲板に現れた航海士が、後に続く者たちへ力強いげきを飛ばした。


きりの海域まで持ちこたえろ! 迷路海流めいろかいりゅうへ入るまで、船とおのれの命を守り抜け! 雲海うんかいさえとらえれば、あとは俺が、お前たちを島まで連れて帰ってやる!」


練達れんたつの船乗りらしい気合いのこもった号令に、空気を震わせるほどのときの声があがった。


――海戦かいせんの幕開けである。


しかるにしのびのお仕事は、敵の首級しゅきゅうをあげることでも、華々はなばなしい武者働むしゃばたらきをすることでもない。


東雲しののめは、逃げる貿易船を追うために帆先ほさきを変えはじめた艦隊をめつけ、ふてぶてしくほおを引きあげた。


「ひい、ふう、みい……――多いわボケェ」


吐いた愚痴ぐちのぶん大きく息を吸いこみ、迷うことなく船のへりを蹴る。


皮肉ひにくにも、それは〝音無おとなし〟の揶揄やゆ体現たいげんするかのごとく、着水ちゃくすいの瞬間まで一粒の水滴すいてきすらあがらない物静かな離脱であった。


この瞬間、彼がいなくなったことに気づけた者は誰ひとりとしていなかった。

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