③蟄虫の少女

誰も口を開かなかった。


一本気であった老人も、手塩にかけてきた新米船乗りのむくろひざをつき、今にも飛び出してしまいそうになる罵詈雑言ばりぞうごんを、あらん限りの理性で噛み殺している。


義理をたてて自分の命を捨てる覚悟はあっても、同胞どうほう道連みちづれにする心構こころがまえなど持ちあわせてはいなかった。


手慣てなれていやがる、と東雲しののめはひそかに吐き捨てた。


人質をたてに、るかるかと選びようのない二者択一にしゃたくいつをせまる。

義勇ぎゆうの心を折るには、このような外法げほうがもっとも手っ取り早い手段であることを、彼はよく知っていた。


伊賀でも「反間はんかんほど良き術なし」と、優秀な人材を離間りかんさせる際には、的確なからめ手のひとつとして推奨すいしょうしているからだ。


だがこの男の所業しょぎょうは、非道ひどうなまでに効率を重視するしのびのそれとは、だいぶ事情がことなるように思われる。


狡猾こうかつに計算高く立ちまわっているように見えて、その本懐ほんかいは、わなにかかった獲物えものをいたぶることが楽しくてたまらない、子供じみた残虐ざんぎゃくさが見え隠れしていた。


あるいは、目の前の集団よりも優位に立てるこの状況が、くるおしいほどの愉悦ゆえつを呼び起こすらしかった。


いびつ屈折くっせつした性根しょうねの臭いに、侮蔑ぶべつと吐き気を覚える。


しかしそれは、ある種の同族嫌悪どうぞくけんおからくるものであった。


東雲しののめは、自分がしのびわくからもはみ出した狂人であることを自覚している。


腹の底に巣食すくけものじみた生存欲は、東雲しののめという人格を形づくる根幹であり、唯一にして最大の武器である。


だからこそ、彼は男が飼っている獣の正体に気づいた。

そして男もまた、東雲しののめいびつな性根を感じ取っていた。


狂人きょうじんの理解者は狂人しかなりえない。


しかしほとんどの場合において、別々の方向にねじれ曲がった彼らの関係性は、水と油なのである。


「あァ、忘れるところだった」


部屋を立ち去ろうとした男は、思い出したように再度東雲しののめの首筋へ白刃しらはをそえた。


粗野そやな海賊とはいえ、赤鬼オグル相手に叛乱はんらんをくわだて、さらには商品を根こそぎ駄目にした功績は賞賛にあたいする。だからこそ、こちらの邪魔をされては困るのだ。いさぎよく死んでくれ」


東雲しののめ平坦へいたん冷笑れいしょうを投げ返した。


「それが人にものを頼む態度か。たけェ、やり直せ」


一触即発いっしょくそくはつのその瞬間、これまで一言も声をあげてこなかったレイラが、唐突とうとつに彼らの間へ割って入った。


「ちょっと待ってよ、そいつは上から引き渡すように言われているの。勝手に殺さないで」


あせりをにじませた早口の台詞せりふに、東雲しののめ怪訝けげん面持おももちで片眉を動かした。


そしてそれはじりものの男も同じであった。


見世物みせものにでもするつもりか? 馬鹿馬鹿しい。海図が手に入ったこの重要な時局じきょくで、しつけのなっていない珍獣ちんじゅうに気を配っている余裕などない」


貴方あなたの意見をいているんじゃないわ。上の指示だって言ってるの。それでも始末しまつしようってんなら、貴方あなたの独断だったって報告させてもらうけど? いいのかしら」


「…………」


盛大な舌打ちをして、男は剣をさやへおさめた。


東雲しののめはレイラの固く握られたこぶしを流し見るや、ひっそりとほくそ笑んだ。

その表情をどうとらえたのか、男が腹立たしげにすごみをきかせる。


命拾いのちびろいしたな。まァ、じきに死んだ方がマシだと泣いてすがることになるだろうよ」


糞食クソくらえ」


パンッ、と派手な音が鳴った。


レイラが東雲しののめの右頬をったのだ。


「勘違いしないで。アンタは私の点数かせぎのために生かされているだけ。殺そうと思えばいつだってできるの」



あらゆる感情を言葉の裏側でみつけにしたような声だった。


男は彼女の行動に留飲りゅういんをさげると、さげすみでれた笑いを落とし、部屋を出ていった。


「おい、レイラ」


後を追うようにきびすを返した少女の背中へ、東雲しののめはこの場にそぐわないのんびりとした声で告げた。


「お前に〝蟄虫ちつむし〟はむいてねェ」


その言葉の意味を、この場の誰も理解できはしなかった。


しかしそれでいい。

ただの戯言ざれごとであり、なにかしらのこたえが欲しかったわけではないのだから。


銀の髪の少女は少し眉間みけんにしわを寄せて東雲しののめを見返していたが、やがてその言葉を置き去りにするように、扉のむこう側へ歩き去っていった。






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蟄虫ちつむし=敵地に潜入した味方。スパイ。

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