第三章 烏合の戦場

①裏切りの夜明け


世界がれている。


煮えたぎった溶岩ようがんを頭の中に流し込まれたかのごとく、鈍い痛みが沈殿ちんでんし、ひどい耳鳴みみなりがした。


身体はろうで固められたように動かず、手足の感触がない。


まるで生きながらにして死んでいるような錯覚さっかくおちいる。


横になっているのか、はたまた立っているのかすら判然はんぜんとせず、身じろげば強烈な吐き気をもよおした。


このぎょしがたい感覚を、自分は知っている――。






「シノ殿! しっかりしてくだされ!」


れぼったいまぶたをなんとか押しあげれば、視界いっぱいに飴色あめいろの毛玉がせまっていた。


「大丈夫でございますか」


「……死にそうだ」


完全に二日酔いの症状である。


できることならこのままどろのように床へ沈んでいたい。

だだをこねる身体に鞭打むちうち、緩慢かんまんながらも上体を起こした直後、ぐらりと世界がかしいだ。


「わっ」と声をあげてネズミがころころ転がっていく。


東雲しののめ暫時ざんじ、瞳をまたたかせた。

足もとがれていたのは酔いのせいだけではなかったのだ。


五日間の放浪ほうろう生活で嫌というほど身にしみついた平衡感覚へいこうかんかくが、気配りの利く小姓こしょうさながらに、さっと答えを差し出してくる。


どうやらここは船の一室らしい。

わだかまったしおの香りと、しけった木板きいたの臭いが、その推察を後押しした。


明朝みょうちょうに出るという話であったが、どうやら寝過ねすごしてしまったようだ。


東雲しののめ愕然がくぜんとした。

とんだ失態しったいである。


おぼれるほど酒をかっくらった顛末てんまつとしては至極しごく当然と言わざるをえないが、しかしそうは言っても、と一緒に船へ運ばれる間もいっさい目を覚ますことなく、のんべんだらりと惰眠だみんをむさぼっていようとは。


が事ながら驚愕きょうがくを禁じえない。


泥酔でいすいした酔っぱらいを親切にも忘れずかつぎこんでくれた青鬼たちに、平伏へいふくして感謝をべたいところであったが、――残念ながらそういうわけにもいかないらしい。


「なにがどうなってんだ……」


東雲しののめの身体は、頑丈がんじょうな麻縄で幾重いくえにも縛りあげられていた。


彼だけではない。

この部屋に押し込められている数十人の青鬼たちもまた、似たりよったりのありさまである。


「乗っ取られちまったのさ」


そばにいた船乗りらしい初老の男が、苦々しく声をひそめた。

他はまだ混乱を隠しきれない様子で、ただでさえ青白い顔をさらに青くわななかせ、おびえながら身を寄せあっている。


なんとも見覚えのある光景である。

違うのは、今回は東雲しののめ拘束こうそくされた側であるということか。


最悪だ。


「裏切り者がいやがったんだ。島民のふりをして、赤鬼オグルの海賊の手先がまぎれこんでやがった」


「ああ、なんとなくそんなこったろうと思った」


状況を見れば一目瞭然いちもくりょうぜんである。

ここ数日の苦労や歓喜がすべて振り出しに戻された気分で、東雲しののめは白目をむいた。


それもこれも調子に乗ってアホほど飲むから……。

否、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。


「海賊の手先とは失礼な」


捕らえた獲物を監視するように壁へ寄りかかっていた男が、咽喉のどの奥で嘲笑ちょうしょうを転がしながらこちらを睥睨へいげいした。


「我々は本国からつかわされた、正規の部隊だ」


黒緋くろあけ色の短髪に、赤鬼とも青鬼ともつかぬ均整のとれた体躯たいく

島の食堂でレイラと言葉をかわしていた、じりものの男であった。


彼の他にも、島民として見かけた顔の青鬼たちが数人、半月型の片刃刀かたはとうをひっさげて威圧的なにらみを利かせている。


混じり者の男が、剣のさき東雲しののめへ突きつけた。

部屋のそこかしこから、ハッと悲鳴じみたれた音があがる。


傘下さんかの賊から、大事な積み荷をうばって燃やした不届ふとどものとは貴様のことだな?」


詰問きつもんでありながら断定した物言いに、東雲しののめは答えない。

ただじっと鋭利えいりな刃先を見つめて、悩ましげに低くうなるばかりだ。


「恐怖で声も出んか」


「――いや、美味い酒がもたらす快楽とその弊害へいがいについて、今後どちらに天秤てんびんかたむけたもんかと……」


「なにをわけの分からないことを言っているのです!」


どこからかネズミのまっとうな忠言ちゅうげんが飛んでくる。

しかし東雲しののめにとってはのっぴきならない大問題なのだ。

命か、享楽きょうらくか……。


しかしそんな個人的な命題めいだいなど知るよしもない男は、額に青筋あおすじが浮かべ、イラだたしげに白刃しらはを彼の首もとへ押し当てた。


「貴様っ」


その時だ。

切迫せっぱくした空気を割るようにして扉が開いた。


「なにをしているの、ダネル」


足早あしばやに部屋を横切るその人物を見とめた途端、飄々ひょうひょうとしていた東雲しののめ双眸そうぼうが、はじめてけわしさを帯びた。


遠方えんぽう船影せんえいが見えたわ。もうすぐ合流する」


「そうか。おい、ただちに準備に取り掛かれ」


男の指示を受けて見張り役の青鬼たちが部屋から出ていく。


東雲しののめは目の前の人物をにらみあげた。


「なんでテメェがそっち側にいる」


「馬鹿ね。私はもともと赤鬼こちら側よ」


冷めた表情で男の横へ並び立つ青鬼の少女――レイラに、東雲しののめは盛大な舌打ちをした。

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