⑭老婆と蜂蜜酒

「鳥がおるわいな」

「あ?」


しわがれ声に振り返ると、背後に腰の曲がった老婆が立っていた。

めしいた白濁はくだくの瞳が、ぎょろぎょろと東雲しののめの全身を眺めまわす。


「黒い鳥がおる。それも三本足とは、おかしなこともあるもんじゃわえ」


どうやら、東雲しののめが腰かけている細い椅子を足の一本と数えたらしい。

それにしても鳥とは、どこをどう見たらそのように映るのか。

「おい、まーたセンリばあからみ酒だぞ」

「悪いねぇお客人、その婆さんちっとボケてるんだ。適当に相手してやってくれや」


「ああ」


呆れたようにそろって苦笑いを浮かべる島民たちだったが、彼らの視線にはかすかに心配の色がにじんでいる。

もちろん、絡まれた東雲しののめの身を案じているのではなく、老婆が見知らぬ余所者よそものに手酷くあしらわれるのではないかと気をんでいるのだ。


良い島だ、と素直に感嘆の気持ちがわいた。


呆けた老婆など、穀潰ごくつぶしにしかならないというのに、こちらをさりげなく見守る島民たちの目は温かい。


穿うがった見方をすれば、働かざる者も食わせてやれるほど、生活に余裕があるのだろう。

しかしそれだけではなく、ここに居る者たち皆が迫害される側の辛さを知っているがゆえに、この島は温かなのだ。


「なんじゃ、女々しく水なんぞ持ちよってからに。うたげには酒じゃ、酒を飲め」


「いや、せっかくだが……」


「ワシの酒が飲めんのかえ」


(面倒くせェ……!)


典型的な酔いどれの横暴である。

老婆は東雲しののめの手から問答無用で水をひったくると、琥珀こはく色の酒がなみなみと注がれたさかずきを押しつけた。甘い芳香ほうこうがふわりと立つ。


おっ、と東雲しののめは目を瞬いた。

この香りは知っている。蜂蜜はちみつである。


蜂蜜といえば、伊賀の里では薬用として重宝される贅沢品であり、東雲しののめも口にした回数は一、二度ほどしかない。


思わず、こくり、と咽喉のどが鳴った。


蜂蜜の酒など聞いたこともないが、そのかぐわしい艶やかな薫りは、他のゲテモノ料理とは一線を画し、あまりにも魅力的である。


しかしながら、それでも東雲しののめは杯に口をつけることを躊躇ちゅうちょした。

生と死を両腕に乗せた天秤てんびんが、いじましくもぐらぐらと拮抗きっこうしている。


「臆病者め」

「!」


老婆のにごった瞳が、心底めた様子でまっすぐにこちらを見据えていた。


「まっことつまらん、つまらん鳥じゃ。さては貴様、空も飛んだことがないな」


ことごとく見当はずれな愚痴ぐちであったが、なぜだかギクリと胸が騒いだ。

図星をつかれた気がしたのだ。


「見てくれも悪いし、歌も下手そうじゃ。面白味のない鳥じゃわいな」

「おい、ババア、さすがに言い過ぎだ」

「事実じゃろうて」


ハン、と老婆はせせら笑った。

侮蔑ぶべつを隠そうともしないその態度に、カチンと青筋が浮く。


ボケ老人の戯言ざれごとだ。

軽く流せば良いものを、そうすることができないのは、老婆の指摘が東雲しののめの一番やわらかい部分を的確に切り裂いたからであった。


「ビビリめ、ひなという歳でもなかろうに、情けない奴じゃ」


「……なにが言いてえ」


地をうような低い声が出た。

遠目から様子をうかがっていた青鬼たちが、たちまち不安の表情を濃くしたが、漏れ出す怒気をおさめることができない。


腹の内側を土足で踏み荒らされた気分だった。


「恐いからと、巣でうずくまっておっても良いことはないぞ。どうせいずれはヘビにでもパクリとやられる」


「…………」


そんなことは百も承知だ。

もうやられた。

忌々いまいましい里から巣立つ勇気を出せずに、東雲しののめはこっぴどく死んでしまったのだ。


老婆の言う通り、ビビったのである。


里を抜ければ追っ手がかかる。

よるべなく一生逃げ続けなければならない不安定な未来へ、踏み出す覚悟を持てなかった。


そんなどうしようもなく情けなく、みじめな後悔を、赤裸々せきららあばかれた気がした。


「鳥ならば、四の五の言わずに飛べ。すぐには上手く飛べずとも、何度無様ぶざまに地へ落ちようと、構わずに飛べ。さすれば、いつかは自由に飛べるようになる」


「……簡単に言いやがって」


なかなかどうして、耳に痛い叱責しっせきだった。

東雲しののめは、叱られた子供のように笑った。


頭では分かっているのだ。

しかし一度死んだにも関わらず、あいも変わらず命がしい。


浅ましいほどに、生への執着しゅうちゃくが消えない。


死が怖いのではない。

一日でも、一時でも長く、生きていたいのだ。


いつだったか、同僚の誰かに「生き意地いじが着物を着て足掻あがいておる」と揶揄やゆされたことがある。

けだし至言しげんである。


魂に染みついた性根とでも言おうか、恐らくもう一度死んだとて、この悪癖は直らないに違いない。


しかしそれではいけないのだ……。

それだけ・・では、同じ後悔を堂々巡りするはめになる。


東雲しののめは意を決して、一息に酒をあおった。


甘美かんびな熱が咽喉のどを焼く。――それは極上の味であった。


「なんじゃ、イケる口ではないか」


楽しげに老婆が笑った。

東雲しののめは、散々《あお》煽ってくれた分を挽回ばんかいするように、空のさかずきを突きつけた。


「飛べ飛べうるせェ、先にばしてやろうか、ばあさん」


「やってみぃ、小僧めが!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る