⑤帆船の墓場


迷路海流めいろかいりゅうをあてもなく漂泊ひょうはくすること五日が過ぎた。


広大な霧の海域はどこまで進んでも終わりが見えず、日数を確認する手立ては、淡く届く陽光が途切れる時間帯を数えるほかない。


幸い、しとしとと糸のような細い雨が断続的に降ってくれるので、少量の飲み水を確保することはできたが、案の定釣りの成果はさっぱりであった。


二日目からは縄をばらして小さな網をつくり海へ垂らした。

すると、まれに小魚やエビが引っかかるようになった。

しかし空腹を癒すにはほど遠い。


しばしば海面を浮きつ沈みつ流れてくる海藻を拾っては、かぼそい声で鳴く腹の虫をなだめるのだった。


沈黙と倦怠けんたいの日々に、一番まいっている様子なのはレイラだ。

しかし初日の一件以来、彼女の瞳から生きようとする意志が消えることはなかった。


少女とて、まがりなりにも鬼である。外見こそ貧弱な印象をぬぐえないが、案外タフなのかもしれなかった。




かくして、五度目の黄昏たそがれがおとずれた。


れ落ちた太陽の光が、霧の底を怪しげな赤銅色しゃくどういろに染め、ただでさえ不明瞭な視界を暗くぼやけさせていく。

夜のとばりが色濃くなるにつれ、今日もまた駄目だったかと、各人の胸に重い落胆が生まれた。


だが、その時である。


ふいにトトが大きな耳をピンと立て、豊かなヒゲを震わせた。

そしてやや緊張した空気をまといながら、警戒した面持おももちで船の後方へ鼻先をむけた。


しっとりと水気をおびた飴色あめいろの毛が、剣山けんざんのように逆立っている。

常にないその様子に、東雲しののめたちも船尾へ視線を走らせた。


しかし当然ながら、重厚な霧の壁にはばまれて、一寸先も見通しがきかない。


「……なに? なにかあるの?」


「わかりませぬ」


曖昧あいまいこたえに反して、硬直した声音はなにかの存在を確信した響きをはらんでいた。

五感ではなく、本能で異変を察知しているのかもしれない。


張り詰めた沈黙が船の上にわだかまった。

警戒と不安と、かすかな期待を抱いて薄闇を見続けることしばらく……。


次に反応を示したのは東雲しののめであった。


時刻は逢魔おうまが時である。

濃藍こいあいと金とくれないがべったりと混じりあう海上に、ゆらゆらとただようなにかが見えた。


木片だ。砕けた木板のようなそれを拾いあげれば、他二人の視線が集まる。


返す返す眺めても、ただの板きれである。

しかし、彼らが肩すかしに拍子抜けした直後、間を置かずして異様な光景が船のまわりを取り囲んだ。


どこからともなく漂流してきたおびただしい量の板くずが、海面を埋め尽くしている。

突然、トトがはっと息を飲んだ。


「あれはっ、青鬼ユニルの方がたが乗っていた船の外装では!?」


「なに?」


「……嘘でしょ」


見る影もなくバラバラに打ち砕かれた残骸の山は、一隻だけのものとは思われない。


まさしく船の墓場ともいうべき場所に、小さな帆かけ船は飲み込まれた。


瓦礫がれきが進路の邪魔をして前にも後ろにも抜け出せそうにない。

トトが瓦礫へむかって声をかけようとした。残骸の中に、遭難した青鬼たちがいるのではないかと思ったのだ。


しかしその口を、東雲しののめの手の平がふさいだ。


「むごっ」

「静かにしろ……、なにか来る」


その言葉が終わるやいなや、前方にぽっかりと闇が現れた。


太陽が雲にでも隠れたのかと思ったが、どうやら違う。

雲海うんかいの一角に、暗くおぼろな|幽気がたたずんでいる。

緊張が走った。


彼らが見ている目の前で、模糊もことした闇はむくむくと膨らみ、やがてなにかの巨大な影が、急速に近づいてくるのだとわかった。


霧が不気味に渦を巻き、尾を引きながら流れていく。

白い霞幕かすみまくをかきわけて、見上げるほど巨大ななにかが姿を現した。


それはなんとこけむした陸地であった。

硬い岩盤に覆われた岩島が、荒波を起こしながらこちらへ迫ってくる。


「……あー、西大陸ユーラヘイムってのは、これか?」


「バカ! そんなわけないでしょう!?」


「ぶつかりますぞ!」


悲鳴をかき消す轟音ごうおんが霧の海に響き渡り、小船は木端微塵こっぱみじんに吹き飛んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る