③海霧


さて、情報源といえば――。


「おふた方、どうやら困ったことになりましたぞ」


「……おう、ネズ公、いたのか」

「ずっとおりましたが!?」


ひょっこりと現れた小さな毛玉は、いつの間にやら立派な旅装束に身をつつんでいた。

赤鬼に奪われていた私物を回収したらしい。


落ち着いた緑の外套がいとうをはおり、背中にはこれまた小さなかばんを背負っている。

自らを戦士と豪語ごうごした彼らしく、肩からななめにかけた菜箸さいばしほどの細い剣が、きらりと誇らしげに輝いていた。

笑ってしまうほど様になっている。


「いやさ、姿が見えんから、てっきり風にでもあおられて海へ落ちたかと思ったぞ」


それは心配をおかけして、とトトはかしこまって頭を下げた。

軽い冗談のつもりだったのだが、真にうけたようだ。


仰々しいほどの礼節をもって東雲しののめに接するネズミの態度に、レイラが変な顔をした。物言いたげな視線を受け流し、先をうながす。


「なにかあったか?」

「実は……」


どうやらこの抜け目ないネズミは、短い時間にも骨おしみすることなく、船内を探っていたらしい。


この手狭な帆かけ船には、屋根つきの小さな船室が備えられている。

先ほど東雲しののめも中をのぞいてみたが、特筆すべき物はなにもなかった。――それが問題であった。


「食料はおろか、水もほんのわずかしか積まれておりません。その上、羅針盤らしんばんや海図ですら乗せられていないのです」


出航準備前の船を強奪したのだから当然である。

あの大騒動の最中そこまで気をまわす余裕はなかった。東雲しののめは後悔してもせんなしと肩をすくめたが、青鬼の少女はただでさえ青白い顔をさらに青ざめさせた。


「ようは西へ行けば良いんだろう。おおまかな方角さえ確かめてりゃあ、いずれはどっかに流れ着くさ」


「……馬鹿ね。そんな適当な航海で西大陸ユーラヘイムへたどり着けるなら、とっくに東大陸ホルンガルド青鬼ユニルはひとり残らず海へ殺到さっとうしてるわ」


レイラはへたりこんで頭を抱え、トトもけわしい表情をしている。


「どういうこった」


西大陸ユーラヘイム直前の海域は、迷路のように複雑で入り組んだ潮流ちょうりゅうはばまれているのです。正しい航路を知らなければ、下手をすると、永遠に海の上を彷徨さまようことになります」


「あー……、そりゃあまた……」


ようやく事態の深刻さが伝わった。

なるほど、食料も水もないとなれば、永遠といわず数日が生きていられる限度であろう。


「つまりあれか、遭難必至ひっしというわけか」


なかなかどうして、前途多難である。


一縷いちるの望みは、先に出た船に積み荷が残されていれば、あるいは……」


捕縛されていた青鬼たちが乗り込んだ船は、こちらのものより規模の大きな帆船だった。もしかすると、それなりの備えが積まれたままになっていた可能性がある。


すがるような思いで、二人と一匹はそろって舳先へさきへと目をむけた。

つい先ほどまで、先行した帆船がそちらの方角に小さく見えていたはずであった。


しかしその時になって、彼らは海上の様子がおかしいことに気づく。

望みの船影せんえいはどこにもなかった。


太陽の位置から判断しても、進路はまっすぐ西へ軌道をあわせたままである。


「なんだありゃあ……」


はるか前方に、灰白色かいはくしょくの濃霧がたっぷりとしたすそを広げてぬりかべのごとくとどこおっている。

おそらく青鬼たちの船は、あの霧の帯のむこう側へ隠れてしまったに違いない。


「思い出しましたぞ……」


果てしなく続く冬の山脈のような水平線を見据えて、ネズミが静かに言葉をつむいだ。


西大陸ユーラヘイムへの到達を困難たらしめる〝迷路海流めいろかいりゅう〟――。そのげに恐ろしきは、雲海うんかいのごとく重く垂れこめる海霧うみきりにある、と……」


やがて、彼らを乗せた小さな帆掛け船もまた、分厚く渦巻く霧の中へと飲み込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る