⑱鬼ヶ島からの脱出

運命の歯車は東雲しののめに考える時間をあたえなかった。


またしても頭上から影が落ちてくる。

今度は人だ。いや、鬼だ。

ボロ布に身を包んだ青鬼の少女が、受け身すらまともに取らず地面へしたたかに打ちつけられた。


「〰〰ッ!」


少女は痛みに数瞬息をつめていたが、やがて懸命に上体を起こし、麻袋を掴んだ。

そのひょうしに、中からなにかが零れ落ちる。――金貨だ。


まさか、と東雲は頬を引き攣らせた。

あの娘、よもや赤鬼からゼニを盗んだのではあるまいか……。


あまりにも無謀な推測は、最悪な形で証明された。

少女を追うように再び人影が降ってきたのだ。

地を揺るがす土埃つちぼこりをたてて、いかれる赤鬼が三人、門を塞ぐように居並んだ。


東雲しののめは白目をむいた。加速度的に状況が悪化していく。

もはや月が怖いなどと、泣きごとを言っている場合ではなかった。


ついに仕掛けを突破したのか、砦の中からも足音が聞こえてくる。

道は前にしかないのだ。


降りそそぐ月光を直接見ないよう目を伏せながら、東雲しののめは鬼との距離をはかった。

青鬼の少女は、打ちどころが悪かったのかいまだ立ち上がれないでいる。

――助ける義理はない。

しかし彼女の落とした麻袋が、東雲しののめを怪異から救ったのは事実だった。


(くそったれ!)


意を決して東雲しののめは飛び出した。

腰にくくりつけた小さな袋を握りしめ、その中身を勢いよく前方へぶちまける。


ぶわり、とあたり一帯が白くけぶった。


驚いた赤鬼たちはハッと息を呑み、空中に漂うこまかな粒子を肺まで吸い込んだ。

途端、刺すような刺激が目と咽喉のどを襲う。

粉の正体は、倉庫から失敬しっけいした盗品の香辛料であった。


赤鬼たちが咳とくしゃみにあえいでいる間に、東雲しののめは少女を担ぎ駆け出した。


これは言及しなくてもよいことであるが……。少女は華奢きゃしゃな見た目に反して重かった。

慣れないことはするものではない、東雲しののめはすでに彼女を放り捨てたい衝動にかられた。


「だ、誰っ!?」


「やかましい、死にたくなかったら耳もとでわめくな!」


少女も粉を少し吸い込んだのか、咳きこみながら抵抗するように手足をばたつかせた。

東雲しののめのイラだちが増す。

ネズミに感化されたのか知らないが、ガラにもなく恩を返そうなどと軽率な行動に出たことを悔いた。


さらには、背後から目を血走らせた赤鬼たちが追ってきた。

思いのほか彼らは足が速い。自分ひとりであれば逃げおおせられるだろうが、彼女を抱えていては、追いつかれるのも時間の問題だった。


少女の膝が後頭部を蹴った。

――あぁ、投げ捨ててしまいたい。しかし一度助けた手前、そんなことをしては格好がつかない……。


東雲しののめは業を煮やして吠えた。


「おい鬼娘、取り引きだ!」

「っ、こんな時になに!?」

「袋の中のゼニ寄越よこしな、そしたら助けてやる!」

「はぁっ!?」


少女は驚愕したものの、刻々と迫ってくる赤鬼たちを見て、表情を引き締めた。


「……断ったら?」

「放り投げて、赤鬼どもの生けにえにしてやる」

「っ、取り引きじゃなくて脅しじゃない! この外道!」

「やかましい! 自分の身も危ねえって時に、タダで善意が売れるか!」

少女はぐっと口籠った。

言いつのりたいことは多々あれど、背に腹は変えられないといったところか。


「全部は嫌、四割よ。それ以上は譲らないわ」

「わかった、俺が六だな」

「私が六よ!」


東雲しののめはまたひとつ袋をばらまいた。

砦の倉庫から逃走用にいろいろと拝借していたのだ。

案外二人は似た者同士なのかもしれない。


尖った鉱物が地面に散らばった。マキビシのつもりであった。

しかしながら、鬼は平然とそれらを踏みつぶした。 舌打ちが漏れる。つくづくデタラメなずうたいである。


闇雲に狙っても意味がない。

東雲しののめは三本の縄を振りまわした。縄は中心でひとつにたばねられ、先端にこぶしほどの鉱石が結びつけてある。

微塵みじんという投擲とうてき用の武器である。


勢いよく風を切り、鬼めがけて飛来した微塵みじんは、遠心力で三つまたに広がりながらそのいかつい顔面へと絡みついた。

次いで目、鼻、唇に鉱石のすいが直撃する。

野太い悲鳴があがった。


うわ、と少女が引きぎみな感想をこぼして自分の口を手で覆った。

顔面への攻撃は、その威力以上に精神をひるませる。

運悪く白羽の矢をうけた鬼の足がとまり、他のふたりも驚きで走る速度を落とした。


その隙に、東雲しののめは前方へと視線を投げた。


ネズミの言葉どおり、砦の外はさびれた孤島であった。

草木一本生えておらず、地面には地下の隠し部屋に使われていた石材と同じ赤黒い岩がごろごろと転がっている。


島の外周は荒波でえぐられ、断崖となって切れ落ちていた。

月が沈む西岸に、下へとのびる細い道があり、その先に二隻の船が停まっている。


手前の小さな帆船の上で、飴色の毛玉が飛び跳ねていた。

律儀に東雲しののめを待っていたらしい。


もう一隻は海賊の本船のようで、いかめしい髑髏ドクロの船首がまばゆい炎に揺らめいている。

ネズミが青鬼たちを指揮してここにも油をまいたのだ。これならば逃げた船を追跡することはできまい。つくづく抜け目ない獣である。


その青鬼たちは無事に離島したらしく、沖合にうっすらと船影が見える。


続いて小道へ急ごうとした東雲しののめの行く手に、巨大な金棒が襲いかかった。

砕かれた小石を腕で払い、咄嗟に数歩後退する。

得物を投げた赤鬼が、進路をつぶすように立ちふさがった。


遅れて、後ろからもうひとりが合流しようとしている。

このままでは挟み撃ちにされる。

だが、他に降りられそうな場所などない。


さすがに焦りがにじんだその時、東雲しののめは自身のふところの衣が不自然に盛り上がっているのに気づいた。

肌に触れる硬質な感触に、彼はこの場を切り抜ける活路を見出す。


イチかバチか、東雲しののめは海へむかって叫んだ。


「ネズ公! 出せ!」


さといネズミは、その一声で即座にもやい綱をかじり、帆を降ろした。


東雲しののめは駆け出した。その行く先は崖である。


無謀にも虚空へ飛び出した彼らを、赤鬼たちのあっけにとられた顔が見送った。

少女の悲鳴が、白みゆく夜空に高く響く。


彼らはそのまま空中を滑るように浮遊した。

東雲しののめの手の中で、黒い蓮の花がくるりくるりとまわっている。


水平線の毛布を肩までかけた月の光が、この日最後の来客を手招いているのだ。


「まだ、そっちには逝けねェんだ」


東雲しののめは、蠱惑こわく的な誘惑を振りほどくように花から手を離した。


もう身体が泡になることはない。

彼はしっかりとした足取りで、小さな帆船へと降り立った。


甲板が大きく揺れ、波しぶきが海の宝石のように輝く。

東の空にまばゆい太陽が昇り、漆黒の砦を黄金色に塗り替えた。


それはまるで、彼らの旅立ちを祝福するような、生涯でもっとも美しい朝焼けであった。



【第一章・了】

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