⑰月光


ついに、門番のいなくなった玄関口へ、東雲しののめはたどり着いた。

ここまで来れば後はこちらのものである。


かなり年季が入っているのか、ところどころサビついた鉄の門扉もんぴを押し開く。

隙間に凝固していた塩の結晶がぱらぱらと落下した。

きしむような音を立てて、夜気に冷やされた潮風が、熱気と高揚でほてった首筋をなでかすめていった。


朝がもうすぐそこに横たわっている。

天には白銀の月が出ていた。


薄れゆく紺碧こんぺきの夜空の大部分を陣取って、巨大な満月が、あらがいがたい引力をたたえ彼を歓迎していた。

神々しいまでに荘厳な美しさである。

砂金のような無数の流星が、螺旋らせん状に渦を巻いて、怪しげな光を放つ月へ次々と呑み込まれている。


信じがたいほど幻想的な光景に、東雲しののめは圧倒され、畏敬いけいにも似た恐れを抱いた。


その時だ。


「――ッ!?」


突如として、噴き上がるような悪寒が全身を貫いた。


脳髄を滅茶苦茶に掻き乱されるような激しい頭痛が襲い、ぐらりと視界が傾ぐ。

眼球の奥がチカチカと瞬き、身体中の毛穴から大粒の汗が噴き出した。


東雲しののめは、自身の体がこまかい光の泡となって崩れていくような錯覚をおこした。


本能的な危機感に背筋が震え、心臓が胸を破り、飛び出さんばかりに早鐘はやがねを打っている。


(呑まれる、月に、呑みこまれる……ッ)


平素ならばなにを馬鹿なとせせら笑うところだが、恐るべきことに、その突飛な発想が真実であると確信する現象がおきた。


指先が淡く光りを発し、水泡すいほうのごとく透きとおって散り散りにばらけようとしている。

まるで、色とりどりのまばゆい箒星ほうきぼしたちとともに、天河てんがのひとしずくに加わりたいとざわめいているかのようだ。


東雲しののめは咄嗟に指先を握りこみ、今にも崩れてしまいそうな自らを必死で繋ぎとめた。


漠然と、巨大な月の光から逃れなければと思うのだが、どういうわけか、炎へ身を投げる夏の虫のように、艶美えんびな輝きに魅せられて瞳をそらすことができない。


徐々に、己が己でなくなっていくような感覚がした。

真綿のように優しい光へのいざないが、しきりに彼の名を呼んでいる。

しかし東雲しののめはそのむこう側に、死のふちで感じた虚無と同じものが待ち受けていると直感していた。


月に瞳を奪われたまま、東雲しののめは懸命に引力へあらがい、じりじりと後退をはじめた。

足袋のかわりに巻いた布が月の光を遮断してくれているおかげで、まだ足は原形をとどめている。しかしわずかでも気を抜けば、途端にぐしゃりと潰れてしまいそうな危うさがあった。


次第に視界が白銀のもやに覆われ、いよいよ正常な思考すら保てなくなった、その直後――。


ふいに眼前をなにかが落下し、月の光をさえぎった。

その瞬間、弾かれたように東雲しののめは後方へ飛びのいた。


金縛りが解け、一気に新鮮な血液が体内を駆けめぐる。

――なにが起きたというのか。


東雲しののめは砦の陰へ舞い戻り、荒れ狂う動悸どうきを抑えながら、足もとへ視線を走らせた。

地面に落ちていたのは、くたびれた麻袋であった。

これが彼の視界を覆ってくれたらしい。


改めて自身の身体をつぶさに調べても、もう崩れる気配は感じなかった。

わずかに骨の奥がうずくような気味悪さを残しつつ、指の先までしっかりと血肉がかよっている。


だがしかし、東雲しののめは完全におじけづいていた。

岸はもう目前であるというのに、一歩を踏み出すことができない。

あのような人知じんちを超えた怪異に、どうやって立ちむかえというのだ。

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