⑬血と屈辱と尊厳


「するってェとなにか。とっ捕まれば鬼の国で見世物みせものにでもされるのか?」


「おそらくは……。軽く見積もっても、まともな扱いは望めないでしょう」


ネズミはあたかも自分のことのように、苦虫を噛み潰した面持おももちで口ごもった。


「とにかく、そういうわけでございますので。逃げるならばお早く! もうしばらくすると、交代のため他の赤鬼どもが起き出してしまいます」


「交代だと?」


「はい、二階で待機している者が五人。現在一階で警備にあたっている者と頭目とうもくをふくめれば、総勢十三人がこの砦には控えておるのです」


「十三……」


多すぎる。ひとり昏倒こんとうさせるだけでもきもを冷やしたというのに、そんな数とてもではないが相手にしていられない。


残念なことに、ネズミの言葉に嘘はないだろう。

探索中、脱出経路としては望み薄であったため足を向けていなかったが、確かに上階へと続く階段があった。そこから増員が降りてくるとなれば、いよいよもって不味マズい事態となる。


もはや腹は決まった。

得策ではないが、イチかバチか、強行ででも玄関口を突破するほかない。

「島の西岸に船があります。この辺りはしおの流れが速いので、船に乗り込みさえすればすぐにここを離れることができましょう。ご武運を祈っておりますぞ!」


「……ん? 待て、お前さんは逃げんのか?」


「自分は、青鬼らを解放せねばなりませんので」


「…………は?」


 驚愕で思考が一瞬止まった。思わず言葉の意味を反芻はんすうしてしまう。


「青鬼どもを? お前さんが?」


左様さようで」


「なにを馬鹿な……。悪いことは言わん、考え直せっ」


「ご心配なく、あなた様にご迷惑はかけません」


「いやいや、そういう問題じゃなくてだな!」


東雲しののめは頭痛をたえるようなしかめっ面で、噛んでふくめるように説得を重ねた。貴重な道先みちさき案内人である獣に、ここで離脱されるのは困るのだ。


「無謀じゃ。死にに行くようなもんだろうが!」


「無謀は覚悟の上でございます」


「勝算はあるのか?」


「……ございませんが」


だろうな、と声には出さずひとりごちた。

まさかとは思うが、先ほど赤鬼に捕まっていたのも、青鬼を救おうとして下手を打ったのではあるまいか……。

実直すぎるこの獣なら十分にありえる、と頬の端が引き攣った。


「何故そうまでして救おうとする? あの者たちとお前さんに、なんの繋がりがあるってんだ」


「……おっしゃるとおり、縁も所縁ゆかりもありません。ですからこれは、己の満足のためでございます。トトがそうしたいと思うから行くのです」


「……は、」


ざらついた腹の底から、皮肉るような嘲笑ちょうしょうがこぼれた。

無償の善意というやつか。いかにも純真なネズミが言い出しそうな甘っちょろい台詞である。


しかしそれは、身のほどもわきまえぬ美事きれいごとでしかない。


「つい今しがたろうして拾った命にしちゃあ、ずいぶんと軽々しく捨てるじゃねェか。おまけに無意味ときた」


「……救って頂いたことには心より感謝しております。しかしこの命の使い道が無意味とは、聞き捨てなりませぬ」


「ハッ、無謀と知りつつむざむざ散りに行くんだろうが。策もなければ得るものもない。運良くことが転んだところで、青鬼どもに礼をされるとも限らん……。ないない尽くしだ。そうだろう?」


ネズミは首をふった。


「なにかを得るために、行くのではありません。――自分を失わぬために行くのです」


「……なに?」


「トトは気にいらんのです。己よりも弱き者を踏みつけ、えつにいるような下卑げびやからが……。どうにかして目にものみせてやらねば、腹の虫が治まりません」


「…………」


っくき相手に散々いいようにもてあそばれ、このままなにもせず尻尾を巻いて逃げ出したとあれば、悔いが残ります。それは死よりもがたいッ」


「!」


――絶句である。

頭を金棒で殴られた心地がした。

獣が吐き出した思いのたけは、すべて身に覚えのある主張であった。


東雲しののめの人生とは、記憶する限り寝ても覚めても屈辱の道であった。


血と泥と汚辱おじょくとでずぶぬれになりながら、ひたすら己の命を握りしめるのに手一杯で、自分をしいたげる者に対しては、ただの一度たりともむくいる余裕などなかった。


結果、ボロきれのごとくあっさりと捨てられ、最期は身をがすほどの虚無きょむと後悔を抱えながら死ぬはめになったのだ。


幸か不幸か、こうして奈落の底に堕ち、今度こそ同じてつは踏むまいと息巻いた。


――そのはずだ、そのはずである。


しかし実際はどうだ。

はじめこそ解放感からくる興奮で、足取りも鳥の羽を得たようであったが、その時ですらすでに、東雲しののめの行動原理は逃げの一手であった。


なんという体たらく。

骨の髄まで負け犬としてのしつけが染みついているといっても過言かごんではない。


さらに、最悪を上乗せすることがある。

東雲しののめは赤鬼を、伊賀いがの上忍と同列に並べるくらいには嫌っていた。憎たらしい、虫唾むしずが走ると嫌悪したのだ。

それだというのに、自分は沸きおこる感情にふたをして、あくまで逃げにてっしようとした。

このネズミのように、格上の鬼へ立ち向かう選択肢など、ちりほども転がってはいなかったのだ。


それは東雲にとってあまりに自然な行為で、――愕然がくぜんとする現実だった。


(馬鹿は死んでも治らねェってか、冗談じゃねえ……!)


あとになって悔いるから〝後悔〟とは、よく言ったものだ。


今ならば痛いほどわかる。

世界がいくら変わろうとも、己が変わらなければ結局は同じなのだ。

人生の道を決めていたのは、他でもない己自身であった。


東雲しののめは、心にけりをつけたように一笑いっしょうした。


「ネズ公、その馬鹿げた一揆いっき……、俺も一枚噛ませちゃくれねえか」


「な、なんですと!?」


――行動原理? そんなもの、面白いというだけで十分だ。


「地獄の鬼に、一泡ひとあわ吹かせてやるのも悪くねえ」

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