⑩赤鬼vs忍者


人生は選択の連続である。


ひとたび道をあやまれば、人の命などというものは、さながら海原うなばらにもまれた木の葉のごとく、たちどころに泡沫うたかた狭間はざまへと失われゆく。

――東雲しののめの骨身に刻まれた教訓である。


そうであるにも関わらず、気がついた時には飛び出していた。

この突然の乱入にもっとも驚いたのは、他でもない東雲しののめ自身である。


(――なっ、にやってやがるッ!?)


全身総毛そうけだつような戦慄せんりつが走った。

すぐさま身をひるがえし逃げをうちかける。しかし東雲しののめの意に反して、彼の足はさらに一歩前へと踏みだした。

敵前へ出たからには後退あともどりは許されないと、頭で考えるよりも早く、本能が結論づけたからであった。


「〰〰っ!」


こうなってしまっては、もはや破れかぶれである。

東雲しののめはいまいましげに舌打ちすると、上体を低く倒し、赤鬼の死角を全力で駆け抜けた。一気呵成いっきかせいに膝裏を蹴りつけ、こちらへ背をむけて仁王立つ鬼の体勢をわずかに崩す。直後、驚異的な腕力によって振りおろされた金棒かなぼうが、ネズミの真横にある石床を蜘蛛の巣状に砕いた。


見かけにたがわぬ恐るべき蛮力ばんりょくである。

こんなもの一発でもくらってしまえば、人の身体などあえなくひき肉と骨粉に早変わりだ。


ぞっと血の気が引き、一瞬にして脳裏に〝死〟の文字が焼きついた。


ゆえに、東雲しののめはくすぶる動揺と混乱の種をすべてわきへと投げ捨てた。

死地において、恐怖や迷いは命とりとなる。

間を置かず、流れるような脚さばきで赤鬼の正面へ踊り出る。

金棒を振りおろしたまま前かがみになっている鬼ののどもとへ、躊躇ちゅうちょなく拳を放った。喉を潰し、声を奪い、救援を断つのは忍の常套手筋じょうとうてすじである。

続けざまに掌底しょうていあごを打ち抜く。脳を揺らし、意識を飛ばそうとしたのだ。

――しかし、その目論見もくろみは外れた。


(浅いッ)


東雲しののめ渾身こんしんの一撃は、鬼の頑強な骨格をほんの少しぐらつかせるだけにとどまった。

言うまでもなく手加減など一切していない。

それだけ強固な脊柱せきちゅうが鬼の体幹を貫いていたのである。


至近距離で、ぎょろりとつりあがった金の瞳と視線が交差した。


悠長に次の手を模索している暇などない。

まばたきよりも早く、戦乱の泥沼でもまれた経験則が、この場の最適解を導いた。


東雲しののめは突き動かされるままに鬼の手首をねじりあげ、金棒をもぎ奪り、腰を落とすと、力まかせに振りあげた。


「ッ、シッ!」


凶悪な鈍器が頭蓋ずがいを直撃する重い音が響いた。

側頭部に叩き込まれた衝撃が、今度こそ鬼の脳をはずませたのだ。


さしもの赤鬼もこれにはたまらず、節くれだった太い脚がちどり足を踏み、背面からどうっと大の字になってくずれ落ちた。その際、後頭部を石床でしたたかに打ちつけたが、いくら待てども痛みに起きあがってくるそぶりはない。


数秒の沈黙をかぞえ、床に沈んだ巨体が完全に動かなくなったことを見とどけるや、東雲しののめはつめていた息をどっと吐き出し、残心ざんしんを解いた。



「だァーっ、クソ重てェ、信じられん!」


金棒を放り捨て、酷使こくしした肩をごきりと鳴らす。


鬼の代名詞とされる鈍器だけあって、一振りしただけでも全身の筋肉が悲鳴をあげている。

あわよくば脱出のための武器として拝借できないものかとたくらんでいたが、コソ泥根性など裸足で逃げ出すほどの重量である。

残念ながら、人間があつかうには不相応な代物のようだ。


――そんなことはどうでもいいのだ。


「〰〰っ!」


東雲はみるみるうちに顔色を青くして、ぐしゃぐしゃっと頭をかきまぜた。


なにを血迷ったのか。打算も勝算もなく、衝動的に鬼へ手を出してしまった……。

我ながらトチ狂ったとしか思えない愚行である。

もしかしたら、死んだひょうしに脳味噌を少しばかり現世うつしよへ落っことしてきたのやもしれない。


自分で自分の行動が理解できず取り乱しながらも、忍らしい臆病おくびょうな警戒心が、この騒ぎで外の赤鬼が集まって来やしないかと耳をそばだてる。


現状はまさしく難局である。

ただでさえ八方ふさがりな立場であったというのに、これでは赤鬼が目をさます前に脱出しなければならない。

東雲しののめは思わず天を仰いだ。

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