⑨窮鼠、鬼を噛む
廊下には他に二つほど扉があったが、どちらも中は空であった。
仕方なくもう一本の通路へ移動した時、奥の小部屋から物騒な物音が響いた。扉ごしに、なにやら興奮した男のだみ声が漏れ聞こえる。
「おらッ! そこだっ、潰せ潰せ!」
息を殺しながら中を
そのうち一人は木箱に腰かけながら耳ざわりな
なにをしているのかと思えば、彼らの足もとには、縦横無尽に駆けまわる小さな影があった。
――ネズミだ。
日ノ本のネズミよりもずいぶんと大きい、
ネズミの胴には頑丈な鉄輪がはめられ、長く伸びた鎖の先にはネズミと同じくらいの大きさの鉄球がついている。なんとも悪趣味な絵面だ。
人間の腕力では持ちあげるのもやっとであろう大振りな金棒を、片手で軽々とあつかう鬼の剛腕には
(それにひきかえ……)
ネズミの身のこなしはなかなかのものである。
圧倒的に不利な条件下にも関わらず、襲いくる凶器をすべて紙一重でかわすさまは、獣ながら
次第に獣の不規則な動きに翻弄されて、赤鬼の方が肩で息をしはじめた。
観戦している片割れのあざけるような野次もあいまって、相当イラだっているのが見てとれる。
ネズミの走りを追うようにジャラジャラと蛇行する長い鎖部分をつかまえれば手っ取り早いものを、そうする素振りがないということは、やはり娯楽の側面が強いのだろう。
おおかた仕掛けたのは鬼の方であろうに、思うようにいかぬと腹をたてようとは、ずうたいに似合わずみみっちい懐の浅さである。
ついには、文字通り足もとにもおよばない
「ちょこまかしやがって! 調子こいてんじゃねーぞ、クソ汚ぇドブネズミが!」
「ドブネズミではない!」
(――……あ?)
しゃべった……。
驚きのあまり硬直する
「我こそは、誇り高きチミー族の戦士トト! 弱きを虐げ、暴利をむさぼるしか能のないデクの坊どもに、決して屈しはせぬ!」
凛としたその声は、磨きあげられた一本鎗を想わせる鋭さをもって、よどんだ空気を切り裂いた。屈辱的な窮地にありながら威風堂々たる
目を奪われるとはまさにこのこと。
その一瞬の隙を獣は見逃さなかった。
雷光のように駆け抜け、荷の山に躍りあがると、積み上げられた樽のひとつに長い鎖を引っかけた。ごろりと樽が倒れ、したたかに床へとぶつかる。木蓋がはねとび、中から琥珀色の液体が飛散した。――油だ。ぶちまかれた薄い波が、瞬く間に床全体へと広がった。
「っ、積み荷を!? よくも!」
慌てて伸ばされた手をひらりとかいくぐり、そのまま下へ飛び降りると、鬼の足首へ長い鎖を絡ませる。体勢を崩した鬼は、油で滑る床へもんどりうって倒れた。
流れるような見事な策である。
たたみかけるように、ネズミは倒れた鬼の太い首へ鎖を巻きつけるや、そのでっぷりとした赤黒い脇腹に思いっきり噛みついた。
皮膚を食い破る痛みに飛びあがった鬼の動きにつられ、鎖の先端につけられた鉄球が、重力という助けを得てその首を絞めあげる。
(――入った!)
狙ったのか、はたまた偶然か。
鎖が食い込んだ位置は、ちょうど太い血管がある人体の急所であった。あそこを圧迫されると、脳への血流が遮断され、人間ならばものの数秒で落ちる。
どうやらその点は鬼も変わらないらしかった。
みるみるうちに瞳の焦点があわなくなり、混乱極まった赤鬼は、的外れにも食らいついたネズミをひっぺがそうと奮闘した。しかし暴れれば暴れるほど、鉄球がギリギリと首を絞めつけ――、ついには泡を吹いて失神した。
(やりやがった……!)
なんという番狂わせ。たかがネズミが――自身の何倍も大きな鬼を、ものの見事に倒してしまった。
知らずしらずのうちに、
背筋が震え、肌があわだつ。恐怖からではない。武者震いである。
いつの間にか握りしめていた
「て、てめェ!」
めまぐるしい展開にただぽかんと立ち尽くしていたもうひとりの鬼も、ようやっと現状に頭が追いついたのか、赤ら顔をさらに赤く
しかしその金の瞳には、わずかな怯えの色がにじんでいた。――無理もない。一体誰が、このような逆転劇を予想できただろう。
しかし勇気ある者の
憤激した赤鬼は、床に転がっていた金棒を拾いあげると、容赦なく鎖を踏みつけた。
いまだ鬼の首に巻きついたままのそれが、ネズミの体の自由を奪う。
――すでに勝負は決していた。
事実として、圧倒的な体格差を前に、小さき者が大きな者に勝つすべは虚を
しかしそれでも、ネズミは真正面から
その
鬼が金棒を高々と振りあげ、小さな
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