第5話 津軽の人々

「なー、こごさ来だの初めで?」(あなた、ここに来たの初めて?)


「えっと…はい」


津軽地方の言葉は津軽弁と呼ばれ、

知らない土地から来た者からすれば

ほぼ外国語である。


そのため菜穂子は

津軽弁を流暢に話すそのお婆さんの言葉を

なかなか聞き取れなかった。


だがニコニコ微笑むその表情と

優しいイントネーションに心が和み、

なんとなく何を言っているのか理解できた。


「どっがら来だの?」


「東京です」


「たんだでねがったねはー」(それは大変だったね)


「いえ…!あっという間でした!」


「こごさ真っ直ぐいげば海さ出る。今時期、小屋さ見ぃるはんで」


「小屋?は、はい!とりあえずあっちですね?行ってみます!」


菜穂子は礼を伝え

お婆さんが指した方向に向かって歩きだした。

少し歩いてから振り返ると

その人の姿がまだそこにあった。


「ありがとうございました〜!」


大きな声を出し手を振ると

「へばね〜」とかえってきた。


「へばね」とは

「またね」「じゃあね」といった意味の

別れ際に交わす挨拶である。


青森に来て初めて出会った人の優しさに

心が澄み渡った。


目の前には青森ベイブリッジが架かり

陸奥湾むつわんの内海である青森湾が広がっている。


橋の袂にはかつて青函連絡船として活躍した

八甲田丸が接岸され、

それを見に多くの人々が出入りしていた。


振り返ると三角屋根の大きな建物が君臨している。

観光物産館アスパムだ。

その中にある展望台にあがり景色を眺めた。


よく晴れた日に

彼方に薄っすら北海道が見えることもあるという。


この日は北海道までは望めなかったが、

湾を囲う下北半島と津軽半島が

真っ青な海と空の境に美しい曲線を描いている。


海だけでなく青森市街も一望できた。


東京よりも空が広く感じ

ちょうど津軽平野に向かって

着陸体制に入っている飛行機が見えた。


「青森にも空港あるんだ」


そんな独り言をかき消すように

カモメが鳴き、大型船が汽笛を鳴らして出航していく。


市内の南には八甲田山はっこうださん

南西には岩木山いわきさんそび

その麓はだだっ広い津軽平野である。


その津軽地方の各地で夏祭りが本番直前となり、

なかでも日本を代表する夏祭り

青森ねぶた祭りが迫ったここ青森市内では、

明日からの本番を控え、

祭り囃子の音色がどこからともなく聞こえている。


今夜はその前夜祭が開かれる。

駅周辺は祭りに合わせて帰省してきた人々で賑わい始めていた。


「あっ!小屋ってこれのこと?」


お囃子の音をたどると

大型ねぶたが収納されている倉庫がずらっと並ぶ場所まで出た。


これらの倉庫は『ねぶた小屋』と呼ばれるもので、

5月から始まるねぶた制作から祭り終了まで

期間限定で現れる青森の風物詩だ。


シャッターが開けられた小屋からは

巨大な立体灯籠が見え、

すでに圧倒されている菜穂子。

太鼓や笛の演奏部隊が練習している様子も間近で見れた。


「ねぶた、すっご〜…」


今日から8月。

青森が1年で1番熱い季節を迎え、

初めて訪れた菜穂子もその熱を感じとる。

高揚した菜穂子はそこから手塚にLINEを送る。


『無事に到着しました!』


『今どこだ』


『青森駅の近くで、ねぶた見てます!』


遠く離れても手塚と繋がった事が嬉しい。

そして菜穂子はその景色をLINEで送った。


そこへさっきのお婆さんが

40代くらいの男女に連れられこっちに向かってくる。


「あれ?さっきの…」


女性の方が声をかけてきた。


「えがった〜!もしかして白石菜穂子さん?」


「はい。どうして私の名前…」


「風子ちゃんがら連絡さあっだの。あなたをよろしぐって!」


「へ?風子さん…ってことは…」


話を聞いていくうちに

この方達は手塚家の親族だという事がわかった。

お婆さんよりも津軽弁を軽めに話しているこの女性は

笑顔が眩しい綺麗なお姉さんだ。


「私、津島典子つしまのりこ。風子ちゃんや大樹くんとは遠い親戚なの」


「それは…!大変ご無礼を致しました!あらためまして、白石菜穂子と申します!」


「うんうん、聞いでる聞いでる!よぐこったとごまで来だねー。1人で不安だったべ?こっがらは、わんどが案内するはんでね!こっちは私の旦那さんのおさむちゃん!」


「どうも〜。おさむです!」


典子の夫だという修は、

目が大きくパグのような顔をしている。

オーバー気味に表情を変え、

芸人のような雰囲気で見ているだけで面白い。


その名前から初めて会う人には毎回

このローカルギャグを披露しているらしい。


「つっても、太宰治じゃねっがんね?」


「あ〜…。太宰治ってこっちの人か。アハハ…」


どう反応すべきか困っている菜穂子に、

典子はかまわず話しかける。


「さっきはうちの婆ちゃんがどうもね〜。ちょっと目を離した隙に、あなたを見づげだらしくで〜。だば名前も聞がねで別れだって言うから焦っだ焦っだ〜!」


「そ、そうでしたか!こちらこそすみません!」


「とりあえず荷物もあるし、うちさ行くべが!」


「え…そんな…」


話を聞くと、お婆さんはさんという

手塚の母方の親族で、

この辺りでは有名な地主の津島家に嫁ぎ、

夫に先立たれてからは1人で家を守ってきたらしい。


菜穂子はそんな歴史を聞かされながら

車に乗せられ津島家に向かっている。


その道中、外に目を向けると

街からどんどん遠のいていくことがわかった。

そしてあっという間に山が迫ってくる。

典子は言う。


「目の前が八甲田山。こっだ田舎だばってゆっくりすでってね!」

(こんな田舎だけど、ゆっくりしていってね」


「ありがとうございます!ですがお構いなく!」


手塚姉弟の思い出の地である津島家は、

ちらっと見て去ろうと思っていたから、

まさかの招待に喜びつつも申し訳なくなっている。


心の中に隠し連れて来た“ チビ手塚”が

「厚かましい」と言わんばかりに菜穂子を睨みつける。

だがこの子は菜穂子の妄想である。


大きな屋敷の門が見えてくると、

修と典子の声が弾んだ。


「もう着いでんでね?」


「あっ!来てら来てら!」


そこにはここにいるはずのない手塚の姿があった。


「せ、先生!?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る