第14話今年も林檎は実をつける

「せんせー!またねー!」

「はーい。気をつけて帰るんだよ」


 古い家屋から、数人の子供が手を振りながら出ていく。その姿を1人の男が手を振り返しながら見送り、子供たちの姿が見えなくなると家屋へと戻っていく。


【書道教室ふじのさと】


 木で出来た看板には流れるような美しい文字でそう書かれていた。


「西条くん、お疲れ様」

「佐倉先生」


 先生と呼ばれた男、西条が戻ると初老の男に出迎えられる。その老人を西条は佐倉先生と呼んだ。この佐倉こそこの書道教室の先生である。


「今日もありがとう。私ひとりだとどうも難しくてね」


 書道教室の先生として佐倉は初め一人で始めた。けれど元気な子供相手はやはり体力も気力もいる。そこで若い人の中で手伝いを頼んだのだ。それに真っ先に手を挙げたのが西条だった。

 西条が名乗りを上げたのはこの書道教室が藤嶺の生家であり、かつて藤嶺碧の父が開いていた書道教室だったからだ。


「でも良かったのかい?君は今上り調子だろうに。こんなところで臨時の先生なんて」

「ずっと習字の先生というものをやりたかったんです」

「ああ、そうか。確か君は藤嶺くんの……」


 西条は一度だけ藤嶺に習った。それは子供の頃の記憶。その一度こそが西条の未来を決めた。藤嶺が若い頃書道教室の臨時講師を勤めたように、西条もそれを真似てみたかった。

 藤嶺の死後、この家は大橋に譲られた。そして大橋はこの家を書道教室として使うことを提案した。自身には教える能力はないからと、隠居した先生に声をかけ、応えてくれたのが佐倉だった。

 佐倉は新しく書道教室を作るのではなく、保存してあったほこりの被った看板を蔵から見つけ出し書道教室ふじのさとを復活させた。

 その話がどこから流れたのか、歌詠みの会の人達が聖地巡礼とばかりに訪れては孫や知り合いに紹介し、生徒が増えていった。

 そこに西条が加わると西条目当ての母親が子供を習わせに来るようになり、書道教室は繁盛していた。

 西条は忙しい中、時間を空けて一ヶ月に二度は必ずこの教室で子供たちの相手をする。案外子供の扱いが上手い西条はすっかり子供たちに懐かれた。


「今日は大橋くんがこの後来るんだ。会っていくかい?」

「大橋さんが?……そうですね。お邪魔でなければご一緒させてください」


 子供たちが帰った後の片付けと掃除をし終わる頃、大橋が訪れた。手伝いをしようとする大橋を止め、先に佐倉と一緒に居間へと通した西条は掃除道具を仕舞うと自身も居間へと向かう。


「西条くんも残っていて良かったです」

「僕にも関係ある用事なんですか?」


 大橋は一つ頷くと、鞄から桐の箱を取り出した。


「藤嶺さんが晩年過ごした家から見つかりました」


 桐の箱の蓋を開けると西条たちのよく知る紙が顔を出す。被された白紙を捲り、中にある本体を取り出した。


「これ、は……」

「藤嶺くんの字だね」


 言葉に詰まる西条の代わりに佐倉が答える。それは紛れもなく藤嶺碧の字だった。

 現役の頃のあの完璧なまでに美しいまるで海の波のように流れる文字ではなく、岩にぶつかっては流れが変わる川のような美しくもところどころに不備が目立つその文字は晩年に藤嶺碧が遺した唯一の作品だった。


「藤嶺碧、最期の作品です」



 大橋は近江の最期を見届けたあと、小屋の整理をしていた。もうここを訪ねることはないのだと思うと気が重く、動く手は遅い。

 藤嶺の服、近江への贈り物、飾り物の丸い文鎮、近江と藤嶺の記念筆。それらを丁寧にダンボールへしまっていく。

 机の中の整理をしていると、藤嶺の仕事道具が出てきた。これは大橋が藤嶺へと渡したものだ。懐かしくなって大橋はそれを広げてみる。丁寧に手入れのされたそれには最近使った痕跡が残っていた。


「もしかして……っ」


 大橋は道具をそのままに部屋中を調べ回る。

 そしてそれを見つけた。

 それは畳んであった布団の奥にしまってあった。

 ただの桐の箱。しかしこの場所には似つかわしくないものだった。その箱だけが浮いていた。

 緊張して震える手で大橋は箱を開ける。その中身は大橋の想像した通りだった。再び箱を閉じる。ぽたぽたと大橋の目からは涙が零れた。


「やっぱり、藤嶺さんはずっと書道馬鹿でしたね」


 結局、藤嶺は書道を捨てることなど出来なかったのだ。

 大橋はそれを持ち帰り、天草に連絡を入れた。

 天草はすぐさま駆け付けた。余程急いで来たのか、いつも整えられている身なりが乱れていた。天草は作品を確認し丁寧にしまう。


「君は会ったことがあるのか?」

「え?」


 突然問いかけられたそれに大橋は疑問を返すことしか出来なかった。


「藤嶺の想い人だ」

「どうして会長がそれを……」

「これを見れば分かる」


 天草は桐の箱を優しく撫でた。


「そうか。藤嶺は最期に素敵な人に出会ったのか」


 一人納得したように呟いた天草は、寂しげな笑みを浮かべ一瞬でいつもの仏頂面に戻った。


「これも君のものだ。好きにしなさい」


 そう言って帰っていく天草を大橋は見送った。

 作品を持ち帰った大橋は悩んでいた。この作品を公表するか否か。

 もちろん、公表すべきだと思う。しかし今公表してしまえば話題は作品ではなく、藤嶺碧という人物の話題になってしまう。大橋はそれを恐れていた。

 あくまでもそれは藤嶺碧の作品の一つであって、決して藤嶺碧という人物を色付けるための道具ではないのだ。作品から作者に思いを馳せるのはいい。しかし、何も知らない記者たちが面白おかしく藤嶺を話題にするための道具にはしたくない。

 迷った大橋は書道教室を引き受けてくれた佐倉へとこの作品を見せ、意見を聞こうと今日ここへ来たのだ。


「どうしたらいいと思いますか」


 西条と共に作品を見る佐倉へと問いかける。

 佐倉は作品から大橋へと目を移し暫し沈黙したあと、口を開いた。


「君はどうしたい?」

「僕は、僕は……」


 作品を見てほしい。これを見たいと思う人間は多いだろう。けれど、どうしても大橋はその決断が出来ない。


「うん。……おや、まだ何か入っているようだね」


 桐の箱の中、白紙の紙のその下に二つ折りにされた紙が出てきた。大橋はそれを見逃していたのか、初めて気づいたとばかりに顔を上げる。


「絵、ですかね」


 紙を広げると、そこには墨で書かれた一房の藤。


「ふふ、西条くんは知らないか。大橋くんは?」

「いえ、」


 佐倉は作品を端に寄せ、自身の書道道具を並べる。

 筆をとり、半紙に同じ絵を書く。花を書き、茎を書いた。


「いとしと書いて藤の花」


 昔からある言葉遊びのひとつだよ。と佐倉は笑う。


「藤嶺くんが教えたのだろうね」


 字の雰囲気はよく似ているが、筆の運びがまだまだ幼い。と、藤嶺の作品の横へ藤の花が並べられた。



 天草は花を持って歩いていた。

 仏頂面に花束は目立つのか、時折人がチラチラと振り返る。しかしそんな視線には目もくれず、天草は目的地へと足早に向かう。その先は、藤嶺の墓だった。

 この墓には骨は入っていない。大橋は藤嶺が晩年を過ごした場所に持っていったと言うが、きっとそこに藤嶺の大切な人がいるのだろう。

 天草は住所こそ知っているが、一度も訪れたことはなかった。藤嶺亡き今、この先も行くことはない。

 空の墓の前で藤嶺は線香を灯す。

 しゃがんで手を合わす天草の後ろでざりっと誰かが砂利を踏む音が聞こえるが、天草はそのまま拝み続ける。


「天草会長」

「……なんだ」

「会長だったら、大事な人の遺作をどうしますか」


 話しかけられた以上無視をするわけにもいかず、天草は立ち上がり振り返る。そこにいたのは大橋だった。


「話題を呼ぶなら迷わず展示する」


 大々的に宣伝してな。と天草は仏頂面で答える。


「やっぱり、公開した方が良いですよね」

「知らん」


 弱気な大橋を天草はバッサリと切り捨てる。


「それが俺の手に渡れば俺の好きにしただろうし、藤嶺が生きているのなら藤嶺の好きなようにしていた」


 大橋は俯いたまま天草の言葉を聞く。


「藤嶺だったら、会長だったら、自分以外だったらなんてたらればを考えるな。それは君のものだ。藤嶺は死んだし、それは俺の手には渡らなかった」


 相談しにきたのか背中を押してもらいにきたのか知らないが、君の望む答えを俺は持っていない。そう淡々と答える天草が、大橋の目の前まで近づく。


「言っただろう。君の好きなようにしろ。藤嶺も好きに生きたのだから」


 君が決めた答えのみが正解だ。

 動かない大橋の横を通り過ぎて天草は墓地を去る。


「まったく、お前の遺したものは面倒くさいものばかりだな」


 藤嶺の死んだ翌年、他の先生たちに混じって名前のない作品が一緒に並べられた。それは他と比べ粗が目立つものだったが不思議と目が惹き付けられるものだった。中にはそれを目当てに来る人もいた。どういうわけか、歌詠みの会という団体が連日その書を見に来ていたという。

 林檎が実る季節のことだった。

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