第9話今こそまされ

 近江は夢を見た。近江が近江と呼ばれるよりずっと前。ただの人魚だった時のことを。

 広い青い海を、周りの人魚たちと特に理由もなく泳ぐ。海では数少ない人魚は基本団体で動く。魚と会話したり、イルカと一緒にいたずらしたり、気ままに日々を過ごす。お腹を空かせた鮫に出会えば全力で逃げる。たまに危険はあれど、いつも変わらない日々が巡る。


「つまらないわ」


 そんな日々を不満に思う人魚は近江以外にもいた。その人魚たちは未知なるものに憧れ陸を目指す。時折遊びに行く程度なら、きっと誰もが挑戦した。けれど本格的に陸を目指した人魚も幾人もいた。そしてその人魚が帰ってきたことはない。

 帰らぬ人魚は死んだのだと噂される。きっと実際に死んでいたのだろう。

 だからか、海の中では【陸と交わった人魚は早死する】と言われ、陸に焦がれすぎてはいけないと年長の人魚たちに言い聞かされるのだ。


「つまらないわ」


 人魚は海でしか生きられない。

 それは母なる海から生命力を分けてもらっているから。若い時分が長く、数百年を生きる人魚は数こそ少ないものもその生命力が故に未だに存在し続けている。長く生きることこそが人魚の生きる理由だった。

 近江は幼い頃、祖母の最期を見た。

 鱗が剥がれ、尾びれは傷だらけで泳ぐことが出来なくなり生きることが困難になった祖母。

 流されないように岩の陰に隠れ最期を迎えた。近江はその姿を見て、嫌だと思った。あんな風に死にたくないと強く思った。思ってしまった。人魚の在り方に疑問を持ってしまった。けれど近江に何が出来ることもなく時は過ぎる。生きているだけの長い日々を過ごすだけ。

 生まれた時から死ぬまで、いや、死んでも尚海を巡るなんて、そんな生き方にうんざりした。

 だけど、その生き方を今更変えようなどという思いを抱くには近江は海を愛しすぎていた。

 海が世界の全ての人魚の中で、近江は異質だった。

 真っ白い美しい髪を持っていた近江は白波の子と呼ばれていた。近江はそれを自分のことだとは認識をしていなかったし、その名で本人に話しかける人魚はいなかったが。

 近江は海に飽き飽きしつつも陸に近付きはしなかった。憧れはあったし知らないもの、新しいもの、楽しいことがきっとあるのだろうとは思うが、海を捨ててまで得るものではないと思っていた。

 海に飽きてはいたが、嫌いではなかった。海が美しいことを、近江は知っていたから。


「ねぇ、一緒に陸に行きましょう。あなたも本当はこんなところ出ていきたいのでしょう?」


 そうやって簡単に誘ってくる人魚もいたが、近江にはその気持ちが分からなかった。


「海のいいところすら知らないのに、陸にいいところを見つけられるのかしら」


 陸が魅力的に見えてしまうのは人魚によくあることだが、海をこんなところと言ってしまうのなら、きっと陸のこともいつかこんなところと言うのだろうと思っていた。

 そういえば、あのぷかぷかと浮かんで遊ぶくらげのような人魚はどうなったのだろう。何が楽しいのか近江の後をついて回っていた、近江と同じマイペースなあの子のことがどうしてだか頭をよぎった。海を当たり前のように愛したあの子が。

 もし、ここに来たのが近江ではなくあの子や他の人魚だったのなら、どうなっていたのだろう。そんなありもしないもしもが頭に浮かぶと同時に近江は夢から覚めた。

 懐かしい海の夢を見た後の近江はぼんやりとしていた。


「みどり……」


 目を数回パチパチと瞬くと近江は目を覚ました。

 夢を見た後は藤嶺に会いたくなるのは何故なのだろうかと近江は疑問に思うが、答えはない。

 珍しく湖に来ない藤嶺に近江は痺れを切らして水路を目指す。

 滑車のおかげで力を入れずにすんなりと行けるので寝起きの近江でもあの水路を渡ることが出来る。

 鱗が剥がれ続けた尾びれは触れると痛みを感じるようになっていた。寝起きでなくともあの狭い水路を自力で渡ろうと思えば数回ほどぶつけてしまい、尾びれに痛みが走る。近江は滑車の有用性に感謝しつつ、水路の向こう側、小屋の中にいる藤嶺のいる部屋を見る。

 藤嶺はいつもと違い、必死な顔で机で何かをしていた。

 なんとなく声をかけれずに、その顔を見る。必死で苦しそうなのに、なんだかとても楽しそうに目を輝かせている。

 近江はそれを見て微笑んだ。

 この男のこういう生きていると感じる表情を近江は気に入っていた。


「素敵ね、みどり」


 近江は海へは帰らない。

 海より美しいものをこの山で見つけてしまったから。



 今の自分に、一体何が残せるのだろうか。

 何も入っていない腹の底から込み上げる吐き気に侵されながら藤嶺は思った。

 朝日が登り始めた頃に、藤嶺は目を覚ました。起きた瞬間に激しい頭痛に襲われ、急いで薬を飲むが痛みは中々引かなかった。治まってきたかと思えば次には吐き気が襲い、胃の中のものを全て吐き出し、それでも足りぬと胃液すらもせり上げた。ただでさえ病のせいで弱くなっていた視界が霞み、目の前が朧気になる。今の藤嶺に分かるのは口の中に残る苦味と、胃液の匂い、そして自分のいつもより早い呼吸音だけ。

 一通り吐き切り、なんとか立ち上がってふらふらと台所へと移動する。水道を捻って顔を荒い口をすすぐ。

 髪についた水滴をそのままに、藤嶺は今のこの身で何が出来るのだろうと考えた。

 それは数分程度のものだったが藤嶺には長く感じる時間だった。

 震える手を見つめ笑う。

 たどり着いた答えは決まっていた。


「俺には、それしかないからな」


 藤嶺はいつかの日、大橋から渡された書道道具を取りだし机の上に並べた。


「手入れをしてくれていたのか」


 久しく使っていなかったそれは、藤嶺がしまいこんだ時よりも丁寧に手入れがされていた。

 書道道具が入っていた鞄を漁れば色んな種類の紙が仕舞われていた。管理が雑になっていたせいでしわが寄っていたり、折り目がついていたりしていたが、藤嶺は気にもとめなかった。人に見せるため、依頼のため、より美しく見せるため、現役だったら気にしていたであろうそれは、ただの藤嶺碧が書くためには特に影響がないからだ。

 硯に数滴の水を垂らし、墨をする。水は黒く染まり段々重くなりとろみがついて艶が出てくる。すり続けるとやがて粘り気が出て水気が少なくなる。そこに少しずつ水を加えては混ぜて自分の望む濃さに調節していく。

 この作業は嫌というほど体に染み付いていた。幼い頃から何年もやり続けたこの作業を、藤嶺は案外気に入っている。

 筆をとり、墨をつける。

 痺れを伴い小刻みに震える右手は、やはり藤嶺の邪魔をする。


「簡単にはいかないな」


 歪み滲んだ潰れた文字を見て藤嶺はくしゃりと紙を掴む。新しい紙を敷いては何度も何度も繰り返し文字を書く。初めて筆を持った時のように。

 書けるまで書けばいい。自分の時間があるかぎり、書くことは出来るのだから。

 いつの間にか小屋の前まで来ていた近江はその姿をじっと見ていた。なんとなく邪魔をしてはいけない気がしたのだ。それでも長いこと休むこともしていない時は声をかけて休憩を取らせた。

 墨の匂いと、紙に筆が擦れる音に包まれいつのまにか近江は寝ていた。最近眠い日が多いが、藤嶺が筆を動かしている時はどうも落ち着いてしまってその場で寝てしまうのだ。

 何日もかけてやっと書き終えたそれを藤嶺は荒い呼吸で見つめた。

 大きな紙に書かれたそれは、今の藤嶺が書ける最高傑作だった。藤嶺は自分の全てをその作品に詰め込んだ。


 藤嶺碧、最期の作品。


「……はは、下手くそ」


 緊張していた糸が切れて藤嶺はその場で倒れ込んだ。


「みどり!」


 自分を呼ぶこの声を、あと何度聞くことが出来るのだろうか。薄れる意識の中で、近江の声だけがはっきりと聞こえた。

 幸い、藤嶺は意識を失って五分ほどで目を覚ました。

 ぼやけた視界で揺れる白をたどり心配そうな顔をしているだろう近江を見て、自分が倒れていたことを理解した。


「おうみ」

「ばか」

「心配させた」

「そうよ」


 藤嶺が近江に手を差し出すと、近江はその手をとって自分の頬に当てる。熱いほどの熱が手から伝わり、藤嶺が生きていることを感じる。その熱を感じて近江はやっと安心することが出来た。


「もう……。まったく、仕方ないんだから」

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