山に人魚

第10話青き葉は紅葉する

　山が色を移ろい始めた時のことだ。

「おおはし、みどりが……」

　――みどりが倒れた。

　近江が初めてかけた電話は、藤嶺が倒れたことを知らせる内容だった。

　その連絡を受けて大橋が急いで向かうと、倒れた藤嶺のおでこに片手を乗せてもう片手で手を握り何度も藤嶺の名前を呼ぶ近江がいた。

「みどり、みどり……大丈夫よみどり」

「っすぐに病院に運びます！近江さんは、」

「気にしないで。……みどりをよろしくねおおはし」

　自分より背の高い藤嶺を、大橋は背に担いで車まで急いで走る。普段ならこんなこと出来なかっただろう。

　藤嶺を背負った時、大橋はその軽さに驚いた。自分ですら担げてしまうほど、藤嶺は体重を減らしていたのだ。

　その重さを感じて本当に藤嶺は死に向かっているのだとゾッとした。そして泣きたくなった。

「藤嶺さん、ちょっと揺れるかもしれないですけど、辛抱してくださいね！」

　後部座席に藤嶺を寝かせ、落ちないようにシートベルトをする。零れ落ちそうな涙を袖口で拭い、運転席に乗り込んだ。

　――泣くのは後でいい。今は急がなければ。　

　悲劇の横では小屋のそばに植えられた林檎が、赤く色づき始めていた。

　病院に運ばれた藤嶺はすぐさま処置をされ、容態は落ち着いて未だ眠りの中だ。医者によると今日は目覚めないだろうとのことだったので、大橋は近江の様子を見るためと藤嶺の替えの服を取りに小屋へと再び車を走らせた。

　小屋に訪れた大橋に気づいた近江は痛む体を起き上がらせた。

「みどりは？」

「とりあえずは落ち着いています」

「そう、よかった……」

「近江さんも、具合が……」

「だいじょうぶ。人魚はしぶといのよ」

　藤嶺の容態悪化に加え、近江の明らかな不調にどうしてこの人たちがこんな目にあうのかと大橋は涙を流した。

「涙ってきれいなのね。はじめて見たわ」

　そう言って近江は綺麗に笑う。

　海の中では溶けて消えるそれを近江は初めて見た。そしてそれは近江と近江の大切な人のために流された涙だった。その涙を近江はとても美しいと思った。

「今日はね、わたしの体調がよくなかったの」

　まるで自分を責めているかのように目を伏せて近江は話し出す。

「近江……」

「だいじょうぶ、まだ起きてるわ」

　出会った当初の輝くほど美しい鱗は光を失い、ボロボロと剥がれ落ちて今では半分も残っていない。

　水の中でさえ身体が重く感じ、目を開けることすら辛そうだった。

　それでも、来てくれた藤嶺と少しでも一緒にいようと湖の縁へ腕を枕にして顔を出していた。

「にんぎょは、しぶといのよ……」

　目を閉じながら少し呂律が回らない口調で話す近江の髪を撫でる。艶がなくなり、軋んだ髪は指によく絡まる。引っ張ってしまって近江が痛い思いをしないように、ゆっくり丁寧に解いていく。

　その優しい手に身を任せていると、ふいに頭から藤嶺の手が離れ地面が少し揺れた。

　重い目を開けると、近江の目と藤嶺の目が同じ位置で交わった。

「みどり……？」

　近江が名前を呼ぶも、藤嶺はそれに返事をすることはなかった。

　人魚の近江では藤嶺を家へ連れていくことは難しい。軋む身体に鞭を打って近江は藤嶺の家へと向かう。

「待ってて、みどり……！」

　それからはさっきの通り。藤嶺から教えられていた電話を使い、大橋へと連絡をした。

　大橋が来るまでずっと傍で声をかけ続け、日差しから守るように藤嶺を自分の影に入るようにと陸へ上がり隣で手を握っていた。

　数分経つと、藤嶺の目が覚めた。のろのろと自分の足で家へと向かう藤嶺を近江は水路から追った。

　藤嶺は縁側にたどり着くと横になり眠りについた。ここなら近江が横におらずとも日陰になっていて、先程のところよりはまだ安全だ。しかし、近江は水路から出て藤嶺の傍に座り寄り添っていた。

　それが大橋が来るまでに行った出来事。

「わたしの腕じゃみどりを抱えられない。わたしにはみどりを運んであげられない。……どうしてわたしはみどりのために何もできないのかしら」

「そんなことっ、そんなことないです！近江さんの存在は、藤嶺さんの支えなんです。貴女がいなくちゃ、藤嶺さんはだめなんです」

「ありがとう。……そう、わたしがいないとだめなのね」

「そうです」

「なら、ちゃんと最期までいてあげないとね」

　大橋によって病院に連れられた藤嶺は白い病室で目を覚ました。

　見覚えのない場所に、目だけをさ迷わせるとすぐに自分が病院に運ばれたことを理解した。ポタポタと点滴の落ちる音がする。

　倒れた時に聞いた水の落ちる音とは違う無機質な音を聞いて近江を思い出した。倒れた自分を呼ぶ近江は大きな目からボロボロと涙を流して、このまま泣き続けたら枯れてしまうのではないかと心配した。

　――近江は、どうしているのだろうか。

　倒れたというのに、藤嶺はずっと近江だけを気にかけていた。

「すぐにでも手術した方がいい」

「そんなに、悪いんですか……」

「……正直、今生きていることが不思議なくらいだ」

　藤嶺が倒れた翌日、大橋は藤嶺を診た医師と話をしていた。

　告げられていた余命を三年も延ばして生きている藤嶺の体はボロボロだった。いつ死んでもおかしくない。

　それでも藤嶺が生きているのは、きっと。

「大きい病院で治療を受ければまだ持つかもしれない」

「藤嶺さんと……話し、ます……」

　大橋としては勿論、藤嶺には少しでも長く生きて欲しいと願っている。そして、今藤嶺が長く生きているのが近江の存在があるおかげだということも理解している。

　もし、入院して治療をすれば倒れてもすぐに対応してもらえるし、痛みや辛さも少しは楽になるのだろう。でも、近江と離れた藤嶺が今のようにいきいきと生きていられるのか、大橋には分からなかった。

　ガラリと病院の扉を開ければ目を覚ました藤嶺と目が合った。

「おおはしくん……。きみがここまで運んでくれたんだね……。ありがとう」

「……っ目が覚めて良かったです。一日、目を覚まさなかったんですよ。辛いところはないですか？」

「ああ、だいじょうぶだ。……近江は、どうしてる？」

「近江さんも、大丈夫です」

「そうか……」

　その言葉を聞いて大橋は藤嶺を家に連れて帰ることを決めた。この人に必要なのはきっと治療や療養なんかじゃなくて近江だと思うからだ。

「……藤嶺さん。少しだけ休んだら、帰りましょうね」

　医師から散々考え直せと言われたが、藤嶺はあと二日ほど入院したあと、自宅に帰ることになった。

　もし次倒れたら覚悟しておくようにと言われたが、藤嶺も大橋もすでにその時の覚悟は決めたのだ。

「ありがとう。大橋くん」

　藤嶺がいない数日の間、自分が近江のことを気にかけようとしていた大橋は、藤嶺についていてあげてほしいと近江から強く言われ大橋は藤嶺のいる病室を見舞うことにした。

　病室に現れた大橋に藤嶺はペンと紙を頼んだ。

　購買に売っていた万年筆ではない使いやすいボールペンと、縦書き用のレターセットのようなものを買い藤嶺に渡すと藤嶺はすぐにペンを持ち、字を書いた。

　大橋は時折落とすペンを拾っては藤嶺に持たせた。書いている内容を盗み見ることは大橋には出来なかった。

　数枚書き終えた藤嶺は、それを大橋に預けた。

「近江に、俺が死んだあとに渡してほしい」

「遺書、ってことですか……？」

「そんなたいそうなものじゃない。なんなら中身を見てもかまわない」

　そう許可が出ても大橋にはそれを見るようなことは出来なかった。

「大橋くん、近江のことよろしく頼む。君にしか頼めない」

「あなたたちふたりは、何よりもお互いのことが大切なんですね」

　藤嶺は自分より真っ先に近江のことを気にするし、近江は自分より藤嶺を優先する。それは自己犠牲なんかではなく、自分の心を大事にしているだけのことなのだろう。お互いが、お互いの心の中心にいるだけのことなのだ。

「本当に、似てますよ」

「ははっ、そうか……。にてるのか、おれたちは」

　その時、大橋は初めて藤嶺の屈託のない嬉しそうな笑顔を見た。その笑顔につい泣きそうになるが、ぐっと堪えて大橋は笑った。