第8話若き書道家

 中学生の頃、祖父に連れられて訪れた書道教室。それが大橋が藤嶺に初めて会った日だ。

 大橋の祖父、一慶の趣味は和歌。その関係で和歌を詠む歌詠みの会というものを作り、定期的に同じ趣味の人達と活動をしている。大橋も幼い頃に連れて行かれていたが、何を言っているのかさっぱりだった。その日もきっとその集まりに連れて行かれるのだろうなと思っていると、祖父が入っていったのは古い家屋だった。門のところにあった看板の書道教室、という文字だけがかろうじて読むことが出来た。

 中に入ると独特な匂いが鼻に届く。中では十人程度の幼稚園児から高校生までの子供が正座をして真面目に机に張り付いて文字を書いていた。

 大橋がその様子をぼおっと見ていると、祖父がある人に向かい駆け寄り声をかける。


「藤嶺くん!」


 祖父の珍しいほど弾んだ声に大橋は反射的にその声の方に振り向く。藤嶺と呼ばれた人は二十代ほどの若い男だった。


「一慶さん」

「すまないね、わざわざ訪ねてしまって」

「いえ。見学ということですが、そちらのお孫さんですか?」

「ああ。この子は少し字が、なんというか個性的でね」


 大橋はその言葉に拗ねたように二人から目をそらす。

 祖父は傷つけないような言葉選びをしたが親にすら字が汚いと言われる自分の字の下手さは大橋自信がよく分かっていた。一種のトラウマのようなそれに無意識に手を強く握る。

 祖父がいつ準備していたのか、昔書いた学校の宿題の書き初めを藤嶺に渡す。どうせこの人も親や学校の先生みたいに自分の字をただ下手だと評するのだろう。もっと頑張ろうと、頑張って書いたなどとは思いもしないように励ますのだろう。それが怖くて大橋は下を向く。


「素直な字ですね」


 藤嶺は大橋の書き初めを一枚ずつ並べていく。それは書いた年が若い順に並べられていた。そして一番古い書き初めを指さし、藤嶺は口を開く。


「筆に迷いがなく、勢いだけで書ききっている。余白にすら墨が飛び散っていて、書道の基本は何一つ守れていないが自由に書いています。でもその次のものにはそれがない。半紙を綺麗に使っている割に雑に適当に書かれています」

「言われてみれば……」

「前の時注意されて面白くなかったのでしょうね。せっかく楽しく書いていたのに、ああしろこうしろと言われて」

「確かに娘があれこれ言っていたのを聞いたな」


 大橋は藤嶺を見た。藤嶺は大橋の目線に気づかずに祖父に説明を続ける。その説明は確かにその時大橋が思っていたことをぴたりと当てていた。


「字だけで分かるものなんだなあ」

「いえ、ここまで分かりやすいことはないでしょう。ですから、素直な字なんですよ」


 藤嶺は大橋を見た。やっと二人の視線が交わる。


「君の字は確かに綺麗とは言えない。けれどとても素敵な字をしている。頑張って書いたんだな」


 それは大橋が藤嶺を尊敬するには十分すぎる出来事だった。藤嶺のこの時の言葉であのトラウマは姿を消した。

 その帰り道、大橋は祖父におねだりをした。


「おじいちゃん。僕、書道習いたい」

「今日ので興味が出たか。なら近くの教室を」

「ううん。あそこがいい」


 近くの教室を探そうと言おうとする祖父の言葉を遮って大橋は言う。


「あの人に習いたい」

「はっはっはっ。お前も藤嶺くんが気に入ったか!」


 祖父は帰路を歩きながら藤嶺の良さを少年のように目を輝かせてこれでもかというほど語る。大橋はそれをまるでヒーローの話を聞いているかのように興味深そうに楽しそうに聞いていた。

 あの書道教室は藤嶺の父がやっているところで、藤嶺は書道家として目を出したばかりであまり顔を出すことがないことを後から知り、大橋は項垂れることになる。しかしそれでも教室に通い、何度か藤嶺自身から教えてもらうことになる。そしてその縁は今も尚続いている。

 藤嶺との出会いは、大橋にとって人生の転機であった。



「どうしてですか!?」


 大橋の大声が部屋全体に響く。しかし、それを言われた人物には届かなかった。


「西条君の価値はその若さとカリスマ性だ。広告塔として彼ほど相応しいものはいない。大橋君もわかるだろう?」


 次の雑誌に載る予定の記事が机に並べられていた。それはどれもこれも藤嶺にも見せた雑誌にも載っていたあの若手書道家、西条の写真だった。日常のルーティン、好きな食べ物、今ハマっているもの、好みの女性のタイプ。そこに書道はほんの1部しか触れられていない。


「西条さんの価値はそんなものじゃ……!!」

「大橋君。君は……確か藤嶺の時もそうやって噛み付いてきたな?それが許されてきたのはひとえに藤嶺の存在があったからだ」


 大橋と対峙していた還暦を迎えたほどの年齢の男性が椅子から立ち上がることもなく大橋を見据える。大橋にはその目はどこか澱んでいるように見えた。


「ああ……そういえば、今度の藤嶺の特設ページを企画したのは君だったか。いやはや2つも企画に口を出すなんて、君はどれだけ偉くなったのだろうな」

「それは……っ」

「なんでも、藤嶺碧のこれまでの作品を集めて個展をしたいんだとか?たかだか書道誌の三流記者風情が大きく出たものだ。藤嶺が死ぬ前に稼ぐ気か?」


 大橋は気づけばその男性の胸ぐらを掴んでいた。


「理想や綺麗事だけで進めると思うなよ小僧。どれだけの想いや実力があってものし上がることは出来ないとまだ分からんか」


 その言葉を投げかけられ、大橋は胸ぐらを掴んでいた手を力なく離した。


「それでも、それでも僕は……」

「少し休むといい。引き継ぎは神原君に任せよう」


 結局、大橋は何も出来ずただ自分の無力さを思い知らされた。

 部屋を出ると、扉の横に西条が立っていた。

 いきなり扉が開いたことに驚いた声をあげ、大橋を見るとまた目を見開いて驚いた。


「大橋さん」

「……すまない、西条くん」

「いいんです。こういうの慣れてます」


 西条は小さい頃から整った容姿でちやほやされていた。百点満点のテストで十二点をとった時も、かけっこでドベだった時も、料理が出来なくて炭みたいに焦がしてしまった時も全部、顔がいいから許されてきた。


「僕が顔だけじゃないって認めさせてやりますよ!」


 何が出来なくても許されてきた。

 けれど、親に連れていかれた書道教室では違った。書き順が間違えば正され、汚い字を書けば容赦なく朱色に染められた筆が上からその字を覆った。ここでは顔なんて関係なかった。

 必要なのは正しい字。美しい文字。それだけだ。そう思っていた。


「注目が集まれば予算だって増えます。僕の理想的な空間を作るための資金策だと思えばなんてことないです!」


 しかし現実は結局この顔に行き着いた。若さ、カリスマ性、容姿端麗な姿。全て自分が努力して手に入れたものでは無いそれを、西条は自分の野望のために使うのだ。

 歳を取れば失う若さも、嫌いだった自分の顔も全部、西条にとっては書道をするための道具にすぎない。


「それに、雑誌に載ればあの藤嶺碧先生のところまで僕のことが届くかもしれない」

「……藤嶺さん、西条くんのこと知ってますよ」

「え!?」

「僕が雑誌持って行きましたから」

「それはノーカンです!!!」


 前向きな西条のおかげで大橋は少し元気を取り戻した。


「西条くん、藤嶺さんのこと知ってたんですね」

「僕が連れていかれた書道教室で、その時臨時教師をしていたんです」

「なるほど。藤嶺さん、少し顔怖いからびびりませんでしたか?」

「とんでもない!とても、よくしていただいて……。他の先生は結構優しい感じで褒めて伸ばすタイプだったので、確かにそちらが人気のようでしたけど。僕は、ちゃんとどこが悪いのか教えてくれたり、どうしたらいいのか僕にも聞いてくれたりしてくれる藤嶺先生が好きでした」


 もちろん今も好きです!と拳を握り熱く語る西条に大橋は昔の自分を重ねた。


「それから、藤嶺先生の個展にも行きました」

「へぇ。初めて会った行ったのはいつのですか」

「僕が小学校五年の時なので……」

「和歌を題材にした時のやつですね!」

「そう!それです!」


 その時の個展を、大橋もよく覚えている。書道教室の生徒や弟子らも共に飾られたあの個展。

 藤嶺の思いつきで、各自が気に入った和歌を自分らしい字で書く。という趣旨だった。もちろん、生徒には藤嶺が手本となる字を書いてあげていた。弟子たちはとても苦労したが良い経験だったし楽しかったと話していた。

 あの時は生徒の家族や書道家以外に、歌詠みの会という和歌を好んだ人の集まりまで来て大評判になったのだ。もちろんそこには大橋の祖父の姿もあり、まるで恋する乙女のように藤嶺の作品に見蕩れていた。歌詠みの会の人らはまたどうかやってくれ、なんなら一年に一回恒例にしようと頼み込んでいたのを覚えている。


「あの時、なんでもっと早くに僕は生まれていなかったんだろうと本当に悔しくて」

「……」

「いつか、いつか藤嶺先生の隣に僕の字を飾るんです」

「それは……。応援してます」


 大橋は西条のその目標がおそらく達成出来ないことを知っていた。しかし、そのことを告げることはできない。

 拳を握りしめ、大橋は言葉を飲み込み笑った。

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