第6話近江の山には藤がなる

「記念筆の件ですが、一ヶ月以内には出来るそうです」

「そうか。ありがとう」

「藤嶺さんの依頼だって話したら最優先でやるって張り切ってましたよ」


 大橋が依頼を出した記念筆を専門に作っている職人がたまたま藤嶺の古くからのファンだったようで、藤嶺からの依頼と聞いてそれはもうやる気をみなぎらせていた。

 どうやら大橋の亡くなった祖父の知り合いだそうで、大橋の祖父と同じ和歌同好会の歌詠みの会に入っていたそうだ。

 電話越しに伝えられるその情報は藤嶺を懐かしい気持ちにさせた。大橋の祖父には藤嶺が若い頃から良くしてもらっていた。

 歌詠みの会には書道家時代に依頼をもらっていた。詠んだ歌を藤嶺が短冊にしたためるのだ。藤嶺の字を気に入ってくれたのか何度も依頼を入れてもらっていたものだ。その影響で和歌に少し興味が出て、個展で取り扱ったこともあった。

 もしかするとどこかでその職人とも会ったことがあるのかもしれない。


「……藤嶺さんは」


 少し言いずらそうに大橋が話を切り出すのを藤嶺は静かに待った。


「藤嶺さんは、本当に治療しないんですか」

「……しないよ」


 藤嶺は病を患っている。それは痛みを伴い藤嶺を蝕み続ける。痛みは薬で抑えられる程度のものだが、手は震えや痺れが現れるため、藤嶺は書道を辞めることにしたのだ。

 多くの人から何度も治療を薦められても、藤嶺は首を縦に振ることはしなかった。それは大橋にも同じだった。


「でも、ちゃんと手術したら……」

「成功率の低い手術だ。成功しても、動くことすら出来なくなる可能性がある。俺は、そこまでして長く生きようとは思わない」


 藤嶺は自分の病気が診断された時から延命のための治療をしないつもりだった。長く生きていたいと思うほどの強い思いがなかったからだ。ここで死ぬのならそういう運命だったのだと受け入れていた。

 電話の向こうの声が水気を帯びているのに気づき苦笑いをする。


「でも、でもっ……」

「ありがとう。俺のためにそこまで心を割いてくれて」

「ぼく、ぼくはまだ、藤嶺さんにっ生きてほしくてっ……」

「うん。すまない大橋くん。君にはとても感謝しているから、出来れば君の願いは叶えてやりたいが……。これだけは譲れないんだ」


 藤嶺はいつだって自分の意見を曲げることはしない。大橋はそれをよく分かっていた。

 そして、山を離れたくない理由があることも最近知ってしまった。

 他人に興味がない割に、意外にも身内には甘い藤嶺なら泣いて縋ればもしかしたら同情して少しは考えを変えてくれるのではないかと思ったこともあるが、藤嶺は自分の意志を曲げない。

 分かっていたことだが、ついに本人から明言されてしまった。

 大橋の目からは本人の意志とは関係なく涙が流れ止まらない。

 憧れていた。尊敬していた。兄のように、恩師のように慕っていた人は、この先を大橋とは生きてくれない。

 大橋はまるで聞き分けのない子供のように泣いた。それを手のかかる弟を慰めるように電話越しに藤嶺はずっと聞き続けていた。


「すみません。お見苦しいところを……」

「いや、泣き虫なのは昔から知ってるからな。君は、自分の感情に素直な人だから」

「藤嶺さん。何もなくても遊びに行っていいですか?」

「ああ。いつでも来なさい」

「いっぱい美味しいものとか持っていきます」

「楽しみにしてる」


 藤嶺が手術を受けない理由に、きっと近江のことも入っていると大橋は気づいていた。だから近江に対して少し敵意を持った。

 けれど、近江が来るより前から藤嶺は自分の死を受け入れていた。近江がいようといまいと藤嶺の意思はかわらない。それでも、行き場のないやるせない気持ちをぶつけてしまう。

 それと同時に分かっていた。

 今まではただ迫る死を待つだけだった藤嶺が変わったことを。

 藤嶺が最近今を大事にしていること。今を生きようとして歩んでいること。それは近江という存在のおかげだということを。

 願うなら、藤嶺が最期の時まで穏やかで幸せな時を過ごしてほしい。

 一番の願いは叶わないのだから、このくらいの願いは叶えて欲しいと大橋は祈るのだ。



 その日、近江は尾びれの痛みに起こされた。

 痛みのある部位を見てみると、鱗が剥がれたところが赤く爛れていた。血こそ出ていないもののヒリヒリと痛むそこは明らかに異常なものだった。どこかにぶつけた覚えも引っかけた覚えもないが、思い当たるとしたら最近鱗が剥がれることが時折あることだろう。

 それでも剥がれた時に痛みはなかった。それが今になってこうも痛むのものだろうか。

 少しの間じっとしていると痛みは治まっていった。

 突然の自身の異変を受け、近江の心には不安が生まれていた。どうしても藤嶺に会いたくなった。

 水面に顔を出すと、既に湖には藤嶺がいた。

 静かに藤嶺に近づく。


「早いのね」

「ああ、なんでか目が覚めてな。二度寝も出来なかったから、ここにいたら近江が顔を出すかと思って」


 そうしたら本当に近江が来た。と嬉しそうに笑う藤嶺に、近江の心は騒がしくなる。


「近江も早いんだな」

「……ちょっと、」


 早く起きてしまった原因を話そうか迷い、無意識に目線が尾びれの傷へと向けられる。藤嶺はそれに気づいて近江の目線を目で追い、尾びれの傷を見つけた。


「怪我したのか」

「ええ。でも、大したことないわ。すぐに痛みは消えたし」

「手当てしよう」

「平気よ。このくらいならきっとほおっておけば治るわ」


 心配する藤嶺に近江がへらりと笑ってそう言うと、藤嶺は眉間に皺を寄せ、湖の中へざぶざぶと水をかき分けて入っていく。近江は驚いて止めるが藤嶺は聞く耳を持たず、ついには近江の目の前までたどり着く。


「人間は寒さに弱いんでしょう」

「寒くない」


 今の時期、暖かい気候とはいえ早朝の水温は高くはない。濡れたままでいれば風邪を引くだろう。


「そうやって近江が心配するように、俺も近江が心配なんだ」

「……それでその気がないなんて言ったら怒るわよ」


 聞き取れなかった近江の言葉を聞き返そうと一歩踏み出した時、立っていた岩から藤嶺は滑り落ちる。

 直前に見た近江は目を見開いて驚き、藤嶺に手を伸ばしていた。

 藤嶺が踏み出した丁度その一歩先から湖は深さを増していた。藤嶺はいきなり湖の中に落ちたことで肺の中の空気が口から零れ水泡となって登っていく。

 苦しむ藤嶺の頬を冷たい手が包み込み、次の瞬間には藤嶺の視界はよく見た顔で占められていた。

 近江から空気が送られ、藤嶺の肺に空気が満ちていく。何度か繰り返し、近江は顔を離すと藤嶺を水面へと連れていく。転んでも溺れない程度の浅さのところまで藤嶺を運ぶ近江の手を藤嶺は掴んで止める。

 近江は藤嶺を振り返らずに問いかける。


「ねぇ、みどり。私、泡になるのかしら」

「近江」

「死ぬのは怖くないわ。でも私、泡になるのは怖いわ」


 藤嶺が近江の名前を呼んでも近江は振り向かない。

 人魚は特に泡にはならない。それは人間の作った夢物語なのだと、近江は言った。ならば、この意味はなんかのか。どうして近江は泡になるのを恐れるのか。


「ならない」


 藤嶺はそれにちゃんと気づいた。


「近江は泡にならない。させない」

「本当に?」

「泡にもさせないし、海にも還さない」


 近江はやっと藤嶺の顔を見た。


「約束よ」


 そう言って笑う近江が差し出した小指に藤嶺は自分の小指を絡めた。

 違う世界の違う種族。生きるところが違い、持っている価値観も違う。それでもふたりは知ることを諦めなかった。寄り添うことを諦めなかった。そんなふたりの想いが重なった。ただそれだけのことだった。

 どちらが先に逝くのかは分からない。けれどもきっと最期のその時までふたりは共にいるのだろう。


「私、海から一番遠いところで死ぬのね」

「ここは海がない県の山の中だからな」

「ふふ、人魚なのにね」

「そうだな」

「貴方と一緒にいられるのなら、山でも海でもきっと世界の一部としてでなく、私は私として終わることが出来るわ」


 種族の違うふたりは未来を紡ぐことは出来ないだろう。けれど今をふたりで生きていくことは出来るのだ。

 御伽噺のようなキラキラした世界などなく、そこにあるのは残酷なまでの現実。産まれ必死に生きてそして最期は骨になり死んでいく。

 しかし、死んでそれで終わりではない。生き物はやがて海に還り土に還り世界を巡る。そして想いは人を巡り、ただそこに残るのだ。私たちの目には見えないだけで、そこに確かに存在している。

 それだけで、生きている意味はきっとあるのではないだろうか。生まれた意味などないけれど、どこかで私たちは生まれた意味を探している。たとえ、子孫が残せなくとも私たちが生きたことがきっと生まれた理由だ。私たちは自分を形作る何かを探して生まれたのだ。

 近江と藤嶺は最後のピースにお互いを選んだのだ。

 決して離れないようにしっかりと繋ぎ止めるように繋いだ手を離しはしないだろう。

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