第5話橋を架ける

 専門家の力を借りつつ湖から小屋にある縁側の前までの水路が完成した。


「ちょっと深さ足りなかったわね」

「悪い……」

「まあ手で勢いをつけながらなら進めるから良いんじゃない?」


 近江が泳ぐには少しだけ深さが足りず、水路を使う際には手で地面を押してその勢いを使っての移動をすることになる。それでも、藤嶺の手を借りずに移動することは可能になったのだから近江は嬉しそうに水路を行き来している。ターンするのが少し難しそうにはしているが。


「そういえば、何か届いてたわね。なんだったの?」

「ああ、昔の友人から是非食べてくれって」

「食べ物なのね」

「まぁ。でもやったことないから出来るのかどうか……」


 郵送で届いたそれを開けるとどうやらお好み焼きのセットのようだった。


「そういえば広島出身だったか」


 郵送が届く前に電話があり、食生活を心配され肉とキャベツなどの野菜を用意しておくようにと言われ用意しておいたのだが、このためだったのかと感心する。ダンボールの底には小さな一人用のホットプレートまで用意されていた。

 ホットプレートを取り出すと、ひらりと紙が零れ落ちる。拾い上げると丁寧な字で“いつか本場のお好み焼きを食べに連れて行ってやる”と書かれていた。藤嶺はそれに苦笑いすると用意されていたレシピ通りに準備に取り掛かる。


「あら、もう出来たの?」

「いや、これからが山場だな」


 縁側から近江が顔を出してホットプレートと睨み合い、ヘラを持って何度かひっくり返すような動きを練習する藤嶺を見つめる。時折小声で「どう考えても無理だろ……」とネガティブな言葉が聞こえるが、生地はすでに焼けてきている。

 何故か近江もドキドキしながらそれを応援する。


「大丈夫よ。ぐちゃぐちゃでも食べれば同じよ」

「失敗する前提で慰めるのをやめろ。俺は出来る」


 生地にヘラを差し込み、一呼吸おく。そして一思いにぐるりとひっくり返す。その時、藤嶺の右手に痺れがきて震える。生地はぐしゃりと折れ曲がりホットプレートに落ちた。周りには乗っていたキャベツがちらほら散らばってしまっていた。


「やっちまったな」

「半分成功したと考えたらいいわ。ちゃんと出来たわよ」


 お好み焼きの形を整えながらその隣で麺を焼く。散らかったキャベツを拾い集め捨て、麺の上に生地を乗せる。そして空いたところで卵を焼いてまた乗せる。

 もう一度ひっくり返すと書かれていたが、藤嶺はそれをスルーしてソースをかけた。二度も失敗する勇気はなかった。


「いい匂いね」

「見た目は兎も角、味はいいはずだ」


 ヘラで切り分け、近江の分と自分の分をよそう。


「あつっ」

「焼きたてだからな」

「ううっ、陸のものには慣れたと思ったのに……。でも美味しいわ」


 はふはふと口の中の熱さを逃がしながらふたりはお好み焼きを頬張る。食べ終わった近江の口の端についたソースを拭ってやり、デザートの林檎を出してやる。


「もう収穫出来たのね!」

「いや、これは貰い物」

「そうなの……」


 嬉しそうな顔を一変させ、しょんぼりとしながら林檎を齧る近江に苦笑しながら藤嶺も林檎を齧る。

 植えた林檎はまだ大きくなってすらおらず、少ししたら間引きをしてしっかり育つように世話をしてやらないといけない。素人が世話した林檎が美味しくできるのかは林檎が実ってからの楽しみだろう。

 蜜の入った林檎を食べながら、藤嶺は近江にひとつ提案をした。


「他の人間と会ってみないか」

「他の? 大丈夫なの?」

「信頼出来る人だよ」


 藤嶺は最近考えていた。自分が死んでしまったあとのことを。今までは自分が死ねばそこで終わりだったのに、残していってしまうものが出来てしまった。下手な人に見つかればどうなるか分からない。その時のために、信頼出来る誰かにこの人魚の存在を伝えておきたかった。

 自分亡き後、任せられる誰かに。

 近江は不安そうな顔をしながらも藤嶺の提案を飲んだ。



「大橋くん、近日中で空いてる日はあるかな」


 藤嶺が電話でそう伝えると大橋はすぐさま「いつでも空けます!」と返事をした。

 大橋は電話から五日後に藤嶺の元へと訪れた。

 山の麓まで藤嶺は大橋を迎えに山を降り、挨拶もそこそこに何故呼んだのかを打ち明ける。


「実は君に会わせたい相手がいるんだ」


 藤嶺は大橋に近江を会わせることにした。

 もしもの時、近江を任せるために。人魚などという空想の中の存在でしかなかった近江を紹介するには絶対に口外しない、信頼出来る人物が相応しかった。そして藤嶺の知る中では大橋が1番の適任だと思ったのだ。


「珍しいですね。藤嶺さんがそんなこと言うなんて。あ!もしかして彼女さんとか!?」


 大橋の大袈裟なまでのリアクションに藤嶺は苦笑いした。女性どころか他人へあまり関心を寄せたことがなかった藤嶺は何度か付き合いこそすれど長くは続かず、まして誰かに人を紹介したことなどなかった。

 大橋と知り合って20年あまり、もちろん大橋にも誰かを紹介したことはなかった。それが今日ここに来て会わせたい人がいる、と藤嶺から言ってきたのだ。大橋の驚きは多少大袈裟ではあるが妥当なものであろう。


「まぁ、とりあえず家まで着いてきてくれ」

「は、はい!」


 山の中腹ほどで車を停め、家までの少し長い距離を歩く。山道になれない大橋は藤嶺の後をはぐれないように追っていた。

 最初は歩くのも困難だった道は、今ではすっかり整えられ草や木に阻まれずに歩くことが出来るようになっていた。それだけ藤嶺はこの山に来てから時が経っていた。

 たどり着いたところにあったのは小屋のような藤嶺の家、そして小さな湖。その近くには簡易的な畑があり、そばに植えられた木には実った何かに袋が被されていて中身は見ることが出来ないが、それでも何なのか予想はついた。


「林檎……?」

「最近移植してもらってな。この前袋をつけたばかりなんだ」

「藤嶺さん、果物お好きでしたっけ?」

「いや、あれは俺用じゃなくてね」


 ぱしゃり。湖から魚が跳ねたような水の音がした。

 藤嶺が湖に近づくのに続き大橋も近づく。


「その人がおおはし?」

「うわぁっ」


 湖からいきなり顔を出した近江に驚いた大橋は思いきり尻もちをついた。

 明らかに人ではない見た目をした近江を指さしながら藤嶺に目線を向ける。その目はまるで助けを求めているようだった。大橋を起こすと、近江の傍でしゃがんだ藤嶺を大橋は信じられないものを見たような顔で見つめた。


「この人魚が、君に紹介したかった相手だ。名前を近江という」

「はぁい。ごきげんよう、おおはし。人魚の近江よ」

「は、はじめまして……」


 未知なる存在に大橋はそう返すので精一杯だった。

 大橋が落ち着くまで少し時間がかかった。

 混乱する間、近江の存在を頭の縁に追いやりながらこんなところに水路なんかあったかなと現実逃避をしていた。人魚という存在を処理するのに頭が追いつかなかったのかずっと混乱したような話し方をしていたが、段々現実を受け入れ、藤嶺に隠れつつではあるが近江と話すことが出来るようになっていた。


「で、近江さんはここじゃないどこかの海から来たと?」

「そうみたいね」

「なんで違う世界だと思ったんすか」

「だって魚たちの言ってることわかんないんだもの」


 人魚は魚の言葉を正確に聞き取ることは出来ないが、人が動物の言いたいことをなんとなく感じとることが出来るように、なんとなく言いたいことが分かるらしい。

 それがこの湖に来てからはまるで伝わらない。もしかして海の魚じゃないからかと思い、生きた海の魚を試しに持ってきてもらったが、やはり何も分からなかったのだとか。


「はぁ……それなのに俺たち人間とは喋れるんですか」

「そういやそうだな」

「不思議よね」


 近江も藤嶺もあまりそういったことに興味を抱いておらず、何故会話が成立するのかなど考えたことなどなかった。そのことに大橋は脱力し、自分がしっかりしないとなと決意した。


「それで大橋くん、ひとつ頼みがあるんだ」

「なんでしょう」

「近江の髪で筆を作ってやってほしい」


 そう言って藤嶺は切っておいた近江の束ねた髪の毛を取り出す。

 それは藤嶺が一人前として認められた時に作成した記念筆を見つけた近江が自分も欲しいと言ったためだった。しかし、藤嶺もやってもらったものだったために勝手が分からずにいた。


「藤嶺さんの筆は確か小筆でしたよね」

「ああ。自分の髪で作るのだから、自分の名前が書ければ十分だろうって言われてな」

「それなら同じ大きさのものにしましょう」

「すまないな」

「いえ!いつでも頼ってください!」


 藤嶺へ筆を贈った人物を知る人は大橋の知るかぎりいなかった。大橋自身もそれを聞いたことはなかったが、藤嶺の表情を見るかぎり中々に親しい人物なのだろう。


「では、お預かりしますね」

「ありがとう。おおはし」

「楽しみにしてください」


 大橋と近江の初対面は1時間ほどで終わった。

 そんなにもすんなりと受け入れられるとは思っていなかったため、藤嶺の思っていたよりも長く一緒にいられているようで藤嶺は心を撫で下ろした。

 帰り道、大橋は藤嶺と近江の姿を思い出していた。

 白髪混じりのおじさんとも言われる年齢の男性に、美しい白い髪を持つ若そうな人魚。山である嶺の字を持つ藤嶺に、海や川の意味を持つ江を持つ近江。正反対に見えるふたりは、どこかチグハグとしているように大橋は思った。

 きっと近江が人魚ではなく、人間として生きていたのならあのふたりは出会うこともなく仲が良くなるようなこともなかったのだろうな。と、大橋は不思議な運命に思いを馳せるのだった。

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