第4話泡にはならない
「人魚は泡になるのか、ですって?」
藤嶺の唐突で奇怪な問いに近江はきょとんとしながら聞き返す。
「ああ、陸にはそういう有名な御伽噺があるんだ」
「なんというか、人間って変なことを思いつくのね」
「そう言うってことはならないのか」
「ええ、他の生き物たちと同じだと思うわ」
海の生き物以外の最期を見たことがない近江はそう答えるしかなかった。自信なさげな語尾になるのは仕方がない。陸の生き物の最期など今まで見たことも、気にすらしたことがなかったのだから。
藤嶺だって、自分が病気にならなければ死というものを意識することなどなかっただろう。
「人間より寿命が長いのか?」
「多分ね。曾お祖母様は200年生きたらしいわ。サメやクジラも信じられないくらい長生きの個体がいたりするでしょう?それと同じ。弱肉強食の中、生きていければどこまでも。食べられてしまえばそれまでよ」
「死んだあとはどうなるんだ」
「海に還るのよ」
御伽噺のようなキラキラした世界などなく、そこにあるのは残酷なまでの現実。それは例え異世界でも陸でも海でも変わりはなかった。
「ねぇ、そのお話ではなんで人魚は泡になるの?」
「なんだったか……確か、恋が叶わなかったんじゃなかったか?」
「ふぅん。随分お優しいのね」
返ってきたのは藤嶺が思っていた感想とは違う、聞きようによっては冷たさを感じるような言葉だった。
「私だったら、私のことを想ってくれない人に鱗ひとつ残したくないもの。泡になって消えてしまえるなら……とてもいいと思うわ」
人魚故なのか、それとも近江だけの個性なのか、近江は独特の感性を持っているように藤嶺は感じた。自分では考えつくことはなかったそれは、どうしてかすとんと藤嶺の心の中へ入ってきて少しだけ共感してしまった。
けれども、同じくらい少しだけ寂しくなった。自分が生きたあとに何も残らないのは、それはどうも寂しい。そう思ってしまった。
「人間は死んだらどうなるの?」
「火葬して骨を壺に入れて、また木の箱に入れて白い布で包むんだ。墓に入れるまでその状態だよ」
「色々大変そうね。人魚はね死期が近づくと海底に穴を掘るか岩で囲うかして最期を待つの。死んだら死骸は魚たちに食べられて海へ還りまた巡るのよ」
「人間は土に人魚は海に、か」
「人魚寿命は海にいるかぎり人間より長いわ。海の生命力を分けてもらっているからかしら。でも海から離れれば長くはないの。それはそうよね、だって半分魚なんだもの」
――私は一体どうなるのかしらね。
くすくすと楽しそうに笑う近江は、死というものに恐怖などないようだった。恐怖どころか、未知のことにワクワクしているようにさえ見えた。だからだろうか少し脅かしたくなった。
「そういえばもうひとつ、人魚といえばの話がある」
「なあに?」
「人魚の肉を食べると不老不死になる」
それを聞いた近江はめをぱちくりとさせて、そして大きな声で笑った。
「それなら、ずっと生きてるサメや魚がいそうね」
海でサメに食べられることは珍しいことではない。まして、死んだ後の肉や骨は魚たちによって食べられることもままある。人魚を食べて不老不死になるのなら、海に生きるほとんどの生き物がそうだと近江はおかしそうに笑う。
「人間って、とっても想像力が豊かで夢見がちなのね」
脅かそうと選んだ話題は近江にとっては面白おかしいものだったようで、藤嶺のささやかな目論見は儚く散った。
「嘘か本当か分からないことなら、人魚の鱗を持つと幸運や幸福が訪れるって話を聞いたことあるわ」
「そっちの海の世界にもそういうものがあるんだな」
近江は藤嶺の手のひらを上にしてその手に何かを乗せる。青い雫型の、大きな魚の鱗のようなものだった。
藤嶺は思わず近江の顔を見る。
「自分で取ったのか」
「違うわ。最近、たまに落ちるのよ。それは拾ったやつ」
自分で取ってはいないものの、やはり藤嶺の思った通りそれは近江の鱗であった。
近江は鱗を指さしてにこりと笑う。
「ねぇ、本当かどうか試してみましょ」
「幸運になるのかどうか? どうやって判断するんだ?」
「そんなこと、顔を見ればわかるわ」
分かるものだろうか。
藤嶺には、自分が幸運かどうかなんて自覚することが出来るとは思わなかった。人は幸運を自分の実力だと思い込んでしまうものなのだから。だから、ましてや人が幸運か幸福かどうかなど、分かるはずがないと思っている。
「あなたに幸運が訪れるように願ってるわ」
それでも、近江にそう言われると本当に幸運が訪れるような気がした。
藤嶺は貰った鱗を御守り袋に入れて持ち歩くようになった。数日経った程度で発揮されるようなものではないのかいつもと変わらない日々を送っている。
いや、変わったことはあった。
小屋の近く、湖からも見える位置に林檎の木を植えた。
藤嶺では出来ないことのため、植木屋に頼み実を付け始めた林檎の木を一本植えてもらったのだ。
どうしてかといえば、近江のためだった。
一度、貰い物の林檎をふたりで食べた時に近江が特に気に入っていることに気づき、それなら木でも植えておけば好きなだけ食べれるだろうと思った藤嶺が即決で購入したのだ。
山の木々とは違う木を近江は最初不思議そうに見上げていたが、林檎の木だと教えると嬉しそうに笑った。
時折、林檎の木の様子を伺う素振りをみせるので、どうやら気に入ってくれてはいるようだった。
実が大きくなり始めるとそわそわと林檎の様子を気にする頻度が高くなっていったのを見て、藤嶺はあることを思いつく。
「ねぇ、なにしてるの?」
「ここに湖からの水を引く道を作ろうと思ってる」
近江の見たこともない道具を持ちながら湖と小屋の間を何度も行き来する藤嶺を不思議に思い聞くと、作業の手を止めずに藤嶺は答えた。
ぶつぶつと何かを呟きながらメモ帳に歪む字で何かを記入していく。
「もしかしてそれ、私のためなのかしら?」
「……さあな」
藤嶺はメモをとる手を止め、じっと近江を見る。
「例え話だが、泳いで移動するとしたらどのくらい深さがいる?」
「ねぇ! やっぱり私のためよね! このくらいあれば余裕よ!」
近江は嬉しそうに藤嶺に詰め寄りながら両手を使って必要な深さを表して伝える。藤嶺はふっと少し微笑み近江の右手と左手の間をメジャーで測りおおよその長さをメモにとる。
「自分で作るの?」
「そのつもりだが、一応専門家にも頼る予定だ」
「あのリアカーを使うこともなくなるのねぇ……」
陸での近江の移動手段として藤嶺が作った改造リアカー。それも水路が出来れば必要なくなるだろう。ガタガタと揺れる乗り心地の悪いものに乗らなくて良くなり、自分の好きな時に小屋までを行き来できるようになるのだ。
「別に水路が出来てもあれに乗りたいなら運んでやるよ」
「ねぇみどり。あなた、……なんでもないわ」
何かを言いかけてやめる。怖気付いたとでもいえばいいだろうか。近江にはその先の言葉を言うほどの勇気を出すことができなかった。その一歩を踏み出せば何かが変わるのに。万が一にでも、藤嶺の口から否定の言葉が出たらと思うと踏み出すことができないのだ。
「ちゃんと聞くから」
言うのをやめた近江に藤嶺がメモをしまい話しかける。
「言いにくいことなら、言えると思うその時まで待つから。だから、言いたいことがあるなら我慢せずに言っていい」
近江がなにか頼みや願いを言おうとしてやめたとでも思ったのだろうか。藤嶺はそう言った。
わがままでもなんでも聞いてやるくらいの甲斐性はあるという意味なのだろうが、近江にはその言葉が嬉しかった。
「そう……そうね。じゃあ、私が言うまで待ってちょうだい」
「ああ」
「ちゃんと言うから、ちゃんと聞いてくれないと嫌よ」
「分かってるよ。ん」
「なあに?」
藤嶺は近江に小指だけを立てた手を差し出すが、近江にはそれの意味が分からず首を傾げる。真似をするように小指を立てて不思議そうにする近江に笑みを零しながらその小指に自分の小指を絡めた。
「ゆびきりって言って、約束する時にはこうするんだ」
「ゆびきり……。変な儀式ね」
変な儀式だと言いながらも、近江は嬉しそうに笑った。
日が暮れると、藤嶺は小屋へと帰る。その後ろ姿を見送って近江は湖の中へと潜り、藤嶺と絡めた小指を水面の方へと掲げてじっと見つめた。
「約束ですって」
近江の周りに数匹の魚が集まる。言葉こそ通じないが、魚たちはどうやら近江を好いているようでこうしてよく集まってくる。
「あなたたちはどう思う? 私、言えるかしら」
魚たちは何も答えない。答えたとしても近江にはその言葉は理解することができない。でもそれでいい。近江は特に返事を期待しているわけではないのだから。
ただ少しだけ浮き立つ気持ちを聞いていて欲しかっただけなのだから。
ねぇみどり。あなた、私のこと好きなのね。
本当はあの時、そう言ってしまいたかった。
「ねぇみどり。私、自分を想ってくれない人には鱗ひとつ残したくないのよ」
月明かりに照らされた湖の中で、近江はひっそりと自分の小指にキスを落とした。
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