第3話それは青く美しい

 手を滑らして割ってしまった皿の代わりと、他の足りない日用品を買うついでに、山から降りた先で近江が気に入りそうなものをいくつか購入した。いつもとは違うものを買う藤嶺に、店の人は驚いてそれから手に取った品を見ると納得したように頷くとにまにまとした笑みを浮かべられた。これも持っていきな、と色々なものをおまけされ、いつの間にか藤嶺の両手いっぱいに品を持たされていた。

 両手が塞がるのは不便だと言って断ろうとも手提げ袋に全部詰められ強引に渡される。


「あの親父……絶対なんか勘違いしてやがる」


 それはもう口角がこれでもかと上がり、やたらと女ウケしそうなものばかり勧めてくるものだから、藤嶺も店主が何を考えているのか分かってしまった。


「俺と近江はそんなんじゃ……、……俺と近江は」


 ――……一体、何なのだろう。


 自らが購入した山に突然現れた人魚。出会ってまだ1年も経たないただの人間のおじさんと、どこかの人魚。友達、仲間、好敵手、師弟、恋人、夫婦、親子、兄妹……探せどふたりを表す言葉など、どこにも存在しない。

 けれども、藤嶺にとって近江の側は心地よく息がしやすいのだ。


「――……さ……! ――……藤嶺さん!」


 その声にハッとして後ろを振り向く。


「大橋くん……」

「さっきから呼んでるのに返事もしないから心配しましたよー!」


 そこにいたのは藤嶺と親交のある三十代半ばの男だった。


「はい。いつもの薬と、あとこれ新刊です! そうそう、伊澄先生が今回受賞されましたよ! 藤嶺さんのお弟子さんの」

「そう、か……伊澄は続けてるのか」

「はい! 藤嶺さんに恥じないようにと殊更気合いが入ってます」


 大橋から手渡されたのは藤嶺が内服している薬ともう一つ、書道の雑誌だった。パラパラとめくると先程名前の出た伊澄の名前と伊澄の書いた字が掲載されていた。

 かつては藤嶺もここに名前が載っていた。


「あれから、調子はどうですか……?」

「ここに来てからは、なんとなく良い気がするよ」

「そうですか! いきなり山を買ってそこに住む。なんて言い出した時は驚きましたけど、良かったです!」

「大橋くんには色々迷惑をかけたね」

「いえ、藤嶺さんにはお世話になりましたから!」


 それから少しだけ雑談をし、ふと時計を確認するとあれから三十分ほどが経っていた。大橋はまだ手に持っていた鞄を藤嶺に渡し、慌てて帰っていった。

 大橋から受け取ったものと店で受け取ったものを大橋から渡された鞄にまとめ家へと向かう。肩に掛けることのできる鞄でなかったら辛かっただろうと思うほどには荷物は多かった。


「おかえりみどり」

「……ただいま」

 近江に話しかけられ、持っていた荷物を降ろして近江が寄ってきた近くへ座る。

「食べ物でも買ってきたの?」

「いや、これは……」


 長持ちする食材はまだあるし、この間買ったばかりだ。痛みやすい肉は元々普段から食べることは無い。最近は育てやすい野菜は自分で育て出した。タンパク質は湖の魚で補える。そのためあまり頻繁に食料を買いに行くことはない。

 カタリと鞄から包装された何かがこぼれ落ちた。


「何か落ちたわ」

「あー……これを買いに行ってたんだよ」


 そう言って新聞紙で包まれたそれを開ける。


「綺麗! 可愛いわ!」

「ガラス細工だ」


 出てきたのはガラスで出来た丸い文鎮。中は海をモチーフに作られており、躍動感のある青い波が閉じ込められている。


「みどりってセンス良いのね!」

「近江が好きそうだと思ったんだ」

「……私?」

「どうせ部屋に置くなら近江が好きなものが良いだろう?」

「私のために買ってきてくれたの?」


 近江は藤嶺からその丸い海を受け取って光に翳す。キラキラと光を反射して波が揺れているようで近江は見惚れていた。


「きれい……」

「気に入ったなら近江が持ってるか?」

「ううん。みどりの部屋に飾って。時々見に行くわ」

「わかった」


 夕暮れが近づくと藤嶺は湖を後に家へ戻る。

 適当に買ってきたものを並べた。色々近江に見せたがやはり1番反応が良かったのはガラス細工の文鎮だった。

 それを藤嶺は自分の机の上に飾った。


 大橋から最後に受け取った鞄を開けると、そこには藤嶺が使っていた硯と筆、半紙など書道の道具が揃えられていた。メモ書きが一緒に入っており癖のある字で「気が向いたらまたお使いください」と書き添えてあった。

 昔は墨の匂いが着くほどに触っていたのに、今では一切使うことのなくなったそれを藤嶺はそっと机の引き出しの中へとしまった。

「藤嶺さんの流れるような字、俺見てて気持ちよくて好きですよ」大きな賞を取った時、そう大橋は言っていた。今の藤嶺ではあんな字は二度と書けない。その事実を認めてしまうのが嫌で、どうしても筆を持つことは出来なかった。


 日常生活に支障をきたすことはない。それでも微かに震える手は、藤嶺から書道を遠ざけるには十分だった。薬を飲んでも変わらずに震える手、痛みだけしか取り除けない薬など何の意味があるのだろうか。

 割れた皿はこの手の震えのせいで落としてしまった。震える手はこうして色んなものを取りこぼしては壊してしまう。

 ペンを持って字を書いてみようとするが、震えが邪魔をして綺麗な字を書くことは出来ない。


「……近江の字のが綺麗じゃないか」


 近江が字を練習したメモ帳と見比べる。

 段々と上達していく近江の文字は、昔の藤嶺の字に少しだけ似ていた。



 藤嶺が筆をとることも墨をすることもなく日は過ぎる。

 近江と出会ってから自然と控えていた煙草をあの日からまた吸い始めた。


「それ、また食べてるの?」

「食べてるんじゃなくて吸ってんだよ……。あんま吸ってる時に近づくなよ」


 近づくなと言われた近江はぽちゃんと音を立てて水の中へ沈むと数秒後には藤嶺から離れたところで水から目だけを出した。


「近づいてほしくないのにここですう? の?」


 その言葉は水に消えて藤嶺には届かない。

 藤嶺はふらりと湖に来ては一本だけ煙草を吸う。その間の藤嶺は近江から話しかけられてもどこかふわふわとした返事を返すことしかしない。何度か話しかけられては近づくなと忠告をして近江を自分から離す。

 ならば、わざわざ湖に来なければいいのにと近江は思い、そして考えた。どうして近づいて欲しくないのにここへ来るのか。そしてひとつの考えに至った。

 近江はもう一度沈むと藤嶺の近くに寄って、尾びれを使って水を藤嶺にかける。

 ぼーっとしている時にいきなりぱしゃりと水を被った藤嶺は驚いたのか、目が覚めたかのようにぱちくりと瞬いて自分が濡れた原因に目を向ける。

 ぶくぶくと白い空気の泡が出てきた水面から笑顔の近江が顔を出す。


「みどり、あなたってめんどくさいのね!」

「人を水浸しにしてめんどくさいとはお嬢ちゃんはいい性格をしてるみたいだなっ」


 少しイラついた顔をした藤嶺は強い力で腕が引っ張られその力に逆らえずに湖の中へ大きな音と水しぶきをあげて落ちていった。

 落ちる寸前閉じた目を開けると目の前にはキラキラと光る青い景色が広がっていた。そして光を反射しては光る青い尾びれで泳ぎながら白い髪をゆらゆらと揺らめいてこちらを見て笑う近江を目にすると、その神秘的な姿に藤嶺は目を奪われた。

 惚けた藤嶺の口からぽこぽこと空気が漏れ白い泡となって昇っていく。苦しくなった藤嶺は酸素を求めて水面に上がった。


「げほっ……は、っはぁ」


 少し水を飲んだせいで咳き込み、肺は空気を取り込むために大きく動く。


「あなた、止めてほしくてここに来てたのね!」

「は……」


 近江の言葉に藤嶺は言葉が出なかった。

 自分でも自分の行動を理解していなかったからだ。

 ただ、煙草が吸いたくて仕方がなくて、何も考えたくなくてぼーっとしていたくて、気がついたらいつも湖に足が向いていた。ただそれだけだった。

 副流煙が身体に悪いからと出来るだけ風下にいたのも、近江に近づかないように言うのも近江を思ってだった。そうだったはずだ。本当に近江を思うのなら煙草を吸う時に湖に来るべきではないはずなのに。

 何故自分が湖に来てしまうのかなんて、考えてもいなかった。

 藤嶺にとって喫煙とは自傷と同じだった。

 きっと、傷ついた心を癒してほしかった。助けてほしいと心のどこかで無意識に思っていたから何度も湖へ足へ運んでいたのだと気づいて藤嶺は顔から火が出るかと思うほど恥ずかしくなった。

 いつの間にか、近江は藤嶺の支えになっていたのだ。


「俺は馬鹿か……」

「あら、可愛くていいじゃない」

「穴があったら入りたい……」

「水ならあるけど……だめかしら? ここも穴といえば穴よ?」


 藤嶺は今度は自分で水の中へ沈んでいった。

 近江はくすくすと笑って珍しい水中の藤嶺に構うのだった。


「はぁ……久しぶりに泳いだな」


 陸に上がり濡れた服を絞る。

 夏とはいえ着衣したまま水に入っていたせいで痩せた身体が寒そうに震えるが、藤嶺の顔はスッキリとしていた。


「たまには水の中も悪くないでしょ」

「そうだな。……ああ。とても、綺麗だった」


 あの美しい青と白を思い出し、藤嶺は近江と目を合わせて笑った。

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