第2話人魚の近江

 滋賀のとある山。その奥に1軒の小さな小屋に住む男がいた。男の名前は藤嶺。齢は五十を過ぎていただろうか。街の喧騒に嫌気がさしたとつい先日山を買い取り小屋を建てたのだ。

 縁側に座りぷかぷかとタバコをふかす男の目には覇気がなく、まるで死んだ魚のような目をしていた。


 ――ぱしゃんっ


 小屋の近くにある小さな湖から水の跳ねる音がした。魚だろうか。今日の夕飯にでもしてやろうかと、男は腰を上げた。


「あら、ごきげんよう」

「……どちらさんで?」


 釣具を持ち湖へと向かうとそこに居たのは魚ではなく、魚の特徴を持った女であった。

 人魚とでも言うのだろうか。白い長い髪に立派な青い尾びれ、輝く鱗。指の間には透き通った水かき、人間の耳にあたる部分には魚の胸びれのような形のものがついており、人間に近しい部分を持ちながらも、その姿はまさに異形であった。


「ここの海ってとっても狭いのね」

「湖だからな……」


 どこかズレた女だった。いや、人間ではないのだからズレているのは当たり前なのだろう。

 この出会いを期に、藤嶺の求めた静かでつまらない日常は遠のいたのだ。

 あれから何故か藤嶺は人魚の世話を焼いていた。

 人魚はやはり世間知らずで、海の中のこと以外を知らなかった。だから藤嶺はまず本を与えた。しかし人魚は字が読めなかった。


「うーん。これが【あ】なのよね?で、この次が【い】……なんだか複雑ねぇ」


 ぶつぶつと呟きながら人魚は幼稚園児がつかうような五十音表を声を出して読んでいる。この後に待ち受けるカタカナの存在と漢字の存在を知ったら人魚はどういう顔をするのだろうか。


「なぁ、人魚の嬢ちゃん。あんたなんでこんな山奥にいるんだ?」

「ちょっと待って! なんだかコツが掴めそうなの……!」


 藤嶺の疑問は最もであった。人魚といえば普通、海にいるのではなかっただろうか。御伽噺の人魚のお姫様は海にいたはずだ。いや、普通だったらまず人魚なんてものは存在しないのだが。それにしてもこんな山奥の小さな湖になど、いるはずがない。この湖は川にもまして海にも繋がっていないのだから。


「で、なに?なんで私がここにいるのか? 知らないわ」

「……じゃあどうやって来たんだよ」

「さぁね。それも知らないわ。気づいたらここにいたんだもの。世の中って不思議なことが起こるのね? それとも陸ではこんなこと当たり前?」

「んなわけないだろ……」

「そ、良かった。そこは海と変わらないのね」


 結局、何故人魚がここにいるのかは分からなかった。人魚すらその理由を知らないのならば、きっと調べようもないのだろう。


「海に還りたくないのか?」

「どっちでも良いわ。ここの海だってどうせ私の海じゃないもの。なら湖でも海でも変わらないわ」

「淡水だぞ」

「あのね、私人魚であって魚じゃないの」


 海の魚は淡水では生きられないというが、どうやら人魚はそれに当てはまらないらしい。

 確かに人魚が苦しそうにしている姿は見たことがない。


「神隠しにあったのかもな」

「神隠し?」

「神様が気に入った人間を攫っちまうんだよ」

「あら、人魚もお気に召したのかしら」

「さあな」

「場所も時空さえも歪ませてここにポイッだなんて好かれてるのか嫌われてるのかどうなのよそこ」

「嫌われてるんじゃないか?」

「失礼な人間ね!!」

 

 ぷんぷんという表現が似合うような怒り方をする人魚に藤嶺は声を上げて笑った。

 誰とも会いたくなくてここへ来たのに、人魚との生活が始まって理想とは違う生活になったというのに、藤嶺は少しずつ心が穏やかになっていくのを感じていた。人間ではないからなのか、この人魚だからなのか。それを明らかにする気は今のところ藤嶺にはなかった。


「人間さんは……」

「藤嶺だ」


 藤嶺のことを人間と呼ぶ人魚になんとも言えない居心地の悪い気持ちになりそう訂正を入れる。

 犬を犬と呼んだり猫を猫と呼んだりすることはあっても、自分が人間と呼ばれる日がくるとは想像もしていなかった。


「ふじ……?」


 呼びづらそうにされ、この人魚に下の名前を教えようかという思いと出来れば言いたくない思いがぶつかる。

 藤嶺はあまり自分の名前が好きではなかった。幼少期はよくそのせいでからかわれたりしたことがあったからだ。

 それでも、なんども練習する人魚に藤嶺は葛藤の末自身の名前を呼ばせることにした。


「みどり……藤嶺碧だ」

「みどり、素敵な名前だわ」


 そこら辺に落ちていた手頃な枝でみどり、とひらがなで書いて見せると、それを人魚は指でなぞった。


「嬢ちゃんの名前は?」

「人魚を人魚というように人間を人間というように名前という概念はあるけれど、個人に呼び名を付ける文化は人魚にはないの」

「へぇ」

「……そうだわ! みどり、貴方が私に付けてちょうだい」

「は……!?」


 人魚は名案だとばかりに笑顔で藤嶺を見る。そのキラキラとした笑顔に有無を言わさぬ圧を感じた藤嶺は人魚に名前をつけることを了承した。


「じゃあ白玉」

「可愛い響きね。意味は?」

「あー……そういう食べ物だよ」


 そう言って携帯で白玉の画像を見せる。


「あら、見た目も可愛い。良いじゃない」


 白い髪から連想されたのが白玉だった。当然却下されると思っていた藤嶺はぽかんと少し間抜けな顔を晒してしまった。そう、相手は人魚。普通の人間の感性とは違うのだ。


「冗談だよ」

「別に私、しらたまで良いわよ。可愛いし」

「近江」


 近江。滋賀はかつて近江国と呼ばれ、古事記では近江は淡海と記されていた。海からこの滋賀の山奥の湖へと来た人魚にぴったりの名前だと、藤嶺は思ったのだ。


「おうみ」

「昔のここら辺の地名だよ」

「なんだか不思議で綺麗な響きね。海ってつくし。おうみ……うん、気に入ったわ」

「そりゃ良かった」

「しらたまでも私は構わなかったけどね!」

「勘弁してくれ」


 何度も自分に与えられた近江という名前を口ずさみ嬉しそうに尾びれをぱしゃぱしゃと動かす。


「ま、改めてよろしくな近江」

「ええ! よろしくねみどり」



 人魚……近江はついにひらがに次いでカタカナとある程度の簡単な漢字を読めるようになった。

 カタカナを見た時は楽勝よ!と意気揚々とマスターしたが、その後に見せた漢字で魂だけが海に還ったかのような間抜けな顔をした。やっと出た言葉は「にんげん、あたまおかしいわよ……」という情けない声だった。しかしまぁその言葉に同意する人は多いだろう。人間というより日本人が特に変わっているのかもしれないが。


「ほら! 名前書けたわ!」


 渡した水中でも書けるというダイビングなどで使われる水中ノートに何度も練習をし、自分の名前と藤嶺の名前を歪だが書けるまでになった。


「貴方の名前、難しすぎるのよ」

「確かに」


 藤嶺も、幼い頃は自分の名前の複雑さに苦労した。画数が多いのだ。


「碧、こんな字を書くのね」

「今日は漢字辞典とか、国語辞典持ってきた」

「じてん?」

「漢字の書き順とか、読みとか、意味とかが載ってるんだよ」

「面白そう!」


 近江はいつも本を読む時は、髪を束ねて手をしっかりと手ぬぐいで拭く。髪から水が垂れないように、本が水気を含んでしまわないようにとした配慮だ。

 髪留めはなかったので、本のスピンが切れた時のために持ってきていた替えの紐を軽く編んで髪紐替わりにと藤嶺が作ったのだ。


「みどり……み、み、みと……みどり。あった! 色んな漢字があるのね。碧、あお色の美しい石。え、青なの?」

「日本人は昔から緑を青って言ったりするからなぁ」

「にほんじん……変な人ばかりなのね……」


 日本語を学んだばかりの外国人もこんなことを思うのだろうか。


「碧山って書いて山の緑を表したり、碧海って書いて海の青を表したり出来る字なんだよ」

「全然違う色なのにね」

「そうだな」

「素敵な字ね。私この字好きよ」

「……俺も、今は嫌いじゃねぇよ」


 女の子みたいな名前だとからかわれ続けた自分の名前を、近江が呼ぶ度になんだかむず痒い気持ちになった。名前を呼ばれるのが嫌いだったのに、いつの間にか近江の口から出る自分の名前を藤嶺は好きになっていた。


「青い美しい石ねぇ……私の鱗とどっちが綺麗かしら?」

「近江は結構自分に自信があるよな」

「当たり前じゃない!美しいものを美しいと言わなくてどうするの?」

「そういうとこ、嫌いじゃないよ」

「素直でよろしい!」


 近江と藤嶺は顔を合わせて笑った。

 2人の心が少しずつ近付いているのを感じた。


「私、みどりの家に行きたいわ」

「いきなりどうした」

「だって、あなたは私の住処を隅々まで見てるじゃない」

「そりゃそんだけ透けてりゃ見えるだろうよ」

「不公平だわ! よってみどりの家に連れていきなさい!」

「……俺に背負えって?」

「湖から頑張って家まで水路を作ってくれても良いのよ?」

「あー……、あ。そうだな、3日くらい待てるか?」


 そう言って3日後を迎えた今日、近江の前に用意されたのは改造されたリヤカーだった。


「なにこれ」

「お前を運ぶやつ」


 木枠で囲われ、水を入れても零れないように作られたリヤカーの中に近江が少しでも快適に移動できるようにとクッション代わりの砂と湖の水を入れ、家から湖までの道のりもリヤカーを押した際にガタガタと揺れないようにと整地をした。


「みどりが作ったの?」

「引っ越してきた時に使ったやつを少しいじったってだけだ」

「器用なのね」

「ん」

「なあに?」


 両手を広げる藤嶺に近江は首を傾げた。


「ひとりじゃ入れないだろ」

「跳べばいけるわ」

「いいから」


 ぐっと握りこぶしを作り今すぐにでも助走をつけそうな近江を引き止め、もし触れて火傷でもしないように腰あたりに布を巻くとそのまま抱きかかえリヤカーへと運ぶ。


「意外と重いな」

「筋肉ついてるからかしら」


 むきっと腕を折って筋肉アピールをするが、力こぶなど出来ず藤嶺は鼻で笑った。


「お前の筋肉は足の方だろうが」

「冗談よじょーだん。人魚ジョーク」


 カラカラと車輪が音を立てながら道を進む。水が揺れては落ち地面の色を濃くしていく。

 ゆっくりと歩いたつもりだったが、舗装されていない平ではない道では揺れもそこそこあり、小屋に着く頃には結構な量の水が溢れていた。


「可愛らしい大きさの家ね」

「家っつか小屋だな」

「悪くないわ!」


 入口を横切り、縁側の傍で真っ直ぐになるようにリヤカーを止める。藤嶺は近江が中を見やすいようにと扉を全開にした。あまり物のない部屋がぽつりとあった。


「みどり、あなたもっと何か飾ったら?私のお気に入りの貝殻あげるわよ?」

「いいんだよ。どうせ……いや、なんでもない」


 どうせすぐに要らなくなるのだから。その言葉を藤嶺は飲み込んだ。それを言ってしまえば、きっとこの時間すらも要らないものになってしまう気がして。


「そうだな、本以外にも何か置いてみるか」

「きらきらしたものがいいと思うわ」

「きらきらねぇ……」


 何が楽しいのか殺風景な部屋を見て近江はにこにこと笑っている。それにつられ藤嶺の顔も緩んでいた。


「なんか適当に持ってくるから、近江が選んでくれよ」

「任せて!腕がなるわ!」


 それは藤嶺が生きてきた中で1番穏やかで幸せな時間だった。

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