独白 Ⅱ

 さつきは何事もなかったかのように毎日を過ごしている。しばらく観察を続けていたが、流産のこともそんなに気にしていないようだった。しかしあの男がまたいつなにをするかまではわからない。手を打っておかなくてはならない、そう思っていた。

 遠藤に頼まなくてはならないことについては、なんとも思っていない。

 一介の酒場の店主の私が出来ることには、限りがある。彼に借りをつくるくらい、さつきが受けた心の傷に比べればなんでもない。

 夏がやって来て、むっとした空気が垂れ込める季節になってきた。

 ある月曜日、風呂から出た私はさつきが台所で考え事をしているのに気づいた。その身を抱くようにしてじっと立っている。あの男になにを言われたかまでは、さつきは詳しく語ろうとしない。しかし、想像くらいはできる。

 あの男のことを考えているな。

 そう思った。さつきの心に侵入し、辱め、ずたずたにしていったあの男のことを。それを考えるとなにかしてやりたくなったが、なんと言って声をかけていいものかわからない。 仕方なしにさつきを抱き上げてベッドまで運び、いつものように抱いた。

「店……」

 なにか言いかけようとするさつきの唇を私のそれで塞いでしまうと、もうさつきはそれだけで観念したようだった。滴ってきたさつきのなかに入り込み、突き上げるように何度も何度も突いた。さつきがわずかに喘ぎ声を上げる。私が動くたびに、さつきは私の背中に爪を立てる。そんな彼女を見ながら、私は心のなかでずっと呟いていた、

 私のものだ。私のものだ。私のものだ。

 そして腹の底に溜まっていた澱をさつきのなかに出してしまうと、私は彼女を抱えてしばらく離さなかった。これであの男のことを忘れてくれるとは思わないが、記憶が薄れていけばいい、そう思っていた。そのうちさつきは、私の腕のなかで眠ってしまった。この寝顔を守るためなら、なんだってできる。そう思った。

 別の月曜日、帳簿付けが終わった頃さつきが遠慮がちに話しかけてきた。

 父親と縁を切ることは出来るか、財産を相続することを放棄するにはどうしたらいいか、彼女は静かに聞いてきた。

 司法書士は、すぐに見つかった。さつきはその司法書士のいる事務所に出かけて行って、詳しいことを打ち合わせて帰ってきた。絶縁状は法的効力はないが、心理的には効果があるだろうと言われてさつきが用意した。遺産放棄の書類の方は、これは少し時間がかかったが無事出来上がった。

 仔猫が四匹、もらわれていった。結局三か月近くも店の入り口に貼り紙をしていたことになるが、効き目はなかったようだ。タマとシロを拾った公園で里親候補者たちと会った。 バーの店主をしていると、知らず知らずのうちにひとを見る目が養われていく。カクテル一杯で帰る客か、支払いを渋ったりする客ではないか、女を食い物にするような客か。 候補者たちは誰も、いいひとそうだった。さつきはそれに安心したようだった。いざ四匹がもらわれていくと、さつきは少し寂しそうに去っていく彼らの背中を見つめ、そしてなにかが吹っ切れたかのように顔を上げた。五匹の内一匹が残ってよかった、その横顔を見て思った。

 店の貼り紙を剥がした途端、客という客が口を揃えて猫の貰い手があったの、と聞いてくるのには閉口したが、さつきは笑顔でそれにこたえていた。

 遠藤が報告にやってきた。これで、嫌いと公言するやくざに借り一つだ。それでもいい、さつきと歩きながらそんなことを思った。杏子、杏子にしてあげられたことはほとんどなかったけれど、その分私はさつきに出来るだけのことをしてやりたい。私の向日葵。

「店長、この絵、なんていうんでしょう」

 ある日パソコンを見ていたさつきが尋ねてきた。いつになく興奮して、画面をじっと見ている。私はパソコンを覗き込んだ。

「ああ、クラムスコイの『荒野のキリスト』だよ」

 さつきはじっと画面を食い入るように見つめている。

「気に入った?」

 およそ若い女の子が好きになるタイプの絵ではないが、有名な絵だ。

「いつか見てみたいです」

 さつきはそっと言った。いいね、と私はこたえた。

「いつか見に行こう」

 月曜日、さつきと本屋に行くことにした。さつきの支度を待つ間、私は新聞を読んで時間を潰していた。

「――」

 ある記事が目に留まった。しかし、これはさつきに言うことはやめておこう。

「店長、お待たせしました」

 さつきが八畳から出て来て、私は新聞を置いて立ち上がった。

 『名古屋の大手建設会社 倒産 工藤建設の社員は……』


 冬が来た。

 さつきとプレゼントの買い出しに行く日、私はもう彼女になにを贈るか決めていた。半年間、それを考えていた。

 なにを贈るのか決まっていてもそれがそこにあるとは限らないということに思いが行かず、プレゼント探しは困難を極めた。これでは約束の二時間が過ぎてしまう――そんなことを思いながら探していると、やっとそれを見つけた。小さいものなので容易にコートのポケットに収まった。

 イヴの夜、客足が落ち着いた頃に二人と三匹でケーキを食べた。さつきがにこにことして私にプレゼントを差し出してきたので、私も彼女に自分のを手渡した。

「あれえ? 店長……」

 さつきは包みを開けると目を丸くして驚いていた。

「五千円以内の決まりですよ? これ、どう見ても五千円じゃないです」

 さつきは手のなかのそれを見て戸惑いながらそう言った。その手には私が選んだ小粒の翡翠のピアスがあった。

「誕生日なにもしてあげられなかったからね。その分」

 若竹色がいいやつなんだって、と言うと、さつきは笑顔になってありがとうございます、と呟いてそのピアスを耳につけた。私は渡された包みを開けた。

「さつきこそ」

 もらったマフラーは、私がよく服を買う店のものだった。

「これ、どう見ても五千円じゃ買えないでしょ」

「店長は今日お誕生日なので、イヴと合算してみました」

 そして来年のプレゼントはもう決まってます、さつきはいたずらっぽく笑った。

「クリスマスが終わったら、お正月ですね。私、来年は店長のお家のお雑煮作ってみます」

 どんなのですか? と聞かれたので、

「入植者たちのお雑煮だからね。その家庭によってバラバラだよ」

「なにが入ってるんでしょう」

「鶏のだしにごぼうとにんじん、大根と椎茸、あとは油揚げとツトかな」

「ツト?」

 さつきが首を傾げた時、階段の上でドアが開く音がした。客が来たのだ。さつきは立ち上がって表へ行った。

 さつきの背中を見ながら、私は思った。

 来年のイヴもその次のイヴも、こうして君と祝えればそれでいい。

 私の望むことは、それだけだ。



                                  了

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向日葵 Ⅱ 青雨 @Blue_Rain

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