別れ
工藤将一は、最近なぜか元気のない息子に気を配る余裕もなく荷造りを終えると、部屋のなかを見回した。
成果がなにも得られないまま、名古屋に帰ることになる。しかし次の休暇では、必ずさつきを連れ帰ってみせる。そう誓っていた。チェックアウトを正午にしているので、出発は少しのんびりできる。拓斗と共にコーヒーでも飲むか、と思ってラウンジにいたら、橘がやってきた。
なんだ、見送りに来たのか。殊勝な心がけだ。
さつきがいないことには不満があったが、なに、照れているのだろうとその思いを一蹴した。橘は座る二人の正面に同じように座って言った。
「これはさつきからです」
橘は拓斗には目もくれず、工藤を正面から見据えてその封筒をテーブルにそっと置いた。
「? ……」
工藤は訝しげにその封筒を手に取り、そして中身を開けた。それに目を通すと、その表情が見る見る驚きに変わっていく。
「……こ、これは?」
「それがさつきの意志です。それに、財産を相続するすべての権利を放棄する旨の書類もあります」
よく目を通しておいて下さい、静かに言い放つと、橘は立ち上がった。父の書類を横から見ていた拓斗は、それにつられて彼を見上げた。
「――」
見上げて、橘のその目を見た。見てしまった。
冷たい、氷のような瞳。なにものをも撥ね返し、なにものをも貫き通す、鉄の意志を秘めた視線。一瞬拓斗を見ただけですぐにそらされたその目は、もう彼のことなど見てはいなかった。
「ああそうだ」
橘は懐から紙片を取り出し、立ったままそれをテーブルに叩きつけるようにして置いた。
あの日工藤が彼に渡した、小切手であった。
「別れませんよ」
言い置くと、絶句して言葉も出ない工藤親子を後にして、橘は去って行った。
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