借り一つ

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 本社がなにやら立て込んでいる、名古屋に帰らなくてはいけないようだ、そう言われて、拓斗はたいそう機嫌が悪かった。東京にいても、さつきにちょっかいを出すこと以外はなにもやることがない。彼は毎晩のように夜の新宿の店を渡り歩いた。

 金払いのいい拓斗はどこに行ってもちやほやされた。しかし彼が帰って行くと、店にいた女たちはいっせいにその背中に向かって舌を出したり、二度とくんなと吐き捨てるように言ったり、ある店のママなどは厨房から塩を持って来させてそれを撒いたりした。

 働いている女は、みんな結婚相手を探しに来ている。仕事はその腰かけで、まともに働こうなんてあいつらは思っちゃいない。夜働いてる女なんて論外だ。汚らしい、唾棄すべき存在。

 彼はそう思っていた。

 その夜も何軒目かの店から出て、拓斗はご機嫌で夜の新宿を歩いた。ふと角を曲がった途端、ごつい身体つきの男たちに両脇を固められた。後ろからもついてきている。

「そのまま歩け」

 酔っている拓斗はなにが起きているのかよくわからないまま、お気楽に鼻歌を歌いながらそれに従った。これから自分になにが起こるかなどと、考えもしなかった。

 三人の男たちは彼をうらびれた通りのなかへ導くと、その内の一人がまだよくわかっていない彼を乱暴に突き飛ばした。相当の力であったし、また酔ってもいたから、拓斗は容易にそこに尻餅をついた。

「なにをするんだよう……」

 ぶつぶつと文句を言うその呂律も、よく回っていない。男たちの内の一人が言った。

「工藤拓斗だな?」

 彼は顔を上げた。そしてその瞬間、身体が凍りついてしまう幻覚を覚えて、ぶるぶると激しく首を振った。

 男たちの目が、怪しく光っている。見たこともないその野性のまなざしに、温室育ちの拓斗は震えあがった。

「橘さつきから手を引け」

「なにを……」

 なにを言っているんだ、と抗議しようとした時、一人がこちらへ近寄ってきた。

「口を押さえてろ。脱がせるんだ」

 拓斗は地面を這って逃げようとした。男たちは易々とそれに追いつくと、乱暴にその足を引っ張って服を脱がせた。

「もし手を引かないのなら橘英二が相手だ」

「ひ……」

 声にならない悲鳴が一瞬響いたようであったが、街の喧噪でそれもすぐに消えてしまった。


「すんだぜ」

 <Chatoyancy>の店内を見まわしながら、遠藤はグラスを磨く英二に向かって静かに言った。

「そうか」

「写真もある。ほれ」

 遠藤が乱暴にその写真の束をカウンターに放ると、英二はそれには目もくれないで遠藤に言った。

「手間をかけさせたな」

「なあに」

 遠藤は初めて見る英二の店に興味津々である。

「男のケツ掘るなんてあんまりいい気分しなかったけど、俺の子分に男でも女でもいいって奴がいたんでそいつにやらせた。まあ泣くわ喚くわ、処女のほうがまだ静かってくらいうるさかったぜ」

 英二は黙ってうなづいた。

「でもいいのか」

 彼に飲み物すら提供しようとせずに、英二はグラスを磨いている。

「あんたに借りた分のいつかの借りは、去年の夏に人探ししてやって帳消しなはずだぜ。 あんた、俺に貸し一つってことになる。いいのかい」

「構わない」

 その冷徹な声は、後悔も迷いもとうの昔に打ち払ってしまったかのようだった。そうかい、遠藤は小さく呟くと立ち上がった。

「もう行くぜ。あの娘が帰ってきちまうもんな」

 英二はそれにはこたえない。

「しっかしあんたが結婚するとは思いもよらなかったな。一応お祝いの言葉でも贈っておくか」

 そう言うと遠藤は帰って行った。英二はカウンターに乱雑に置かれた写真の数々をちらりと見て、それらを灰皿の上に置くと静かに火をつけた。そして煙草を取り出し、それにも火をつけた。

 背後で物音がした。さつきだ。

「戻りました」

 おかえり、英二はめらめらと燃える写真をじっと見ながら静かにこたえていた。

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