独白

 シロさんがうちにきて、どれくらいになるんだろう。

 シロさんは仔猫を産んだあと、仔猫たちの面倒を甲斐甲斐しく見ている。大変じゃないのかな、しんどくないのかな、そう思うくらい、ほとんど寝ないで仔猫たちと遊んだり、毛づくろいしてあげたりしている。シロさんは毛が長いので、毎日ブラッシングしてあげなくてはいけない。どの部屋にいてもブラシを手に取る音がすると、シロさんはすっ飛んでやってくる。そしてブラシに顔を押しつけてごろごろ言うのだ。タマはにゃあ、と鳴くが、シロさんはかすれたひゃあ、という声で鳴く。仔猫もそれに似たみたい、にーにー言わなくなってからはひゃあ、という声が部屋のあちこちから聞こえるようになった。

 お風呂に入っていると、すりガラスの向こうに黒いかたまりがいる。シロさんだ。シロさんは私がお風呂から出てくるとひゃあ、と鳴き、着替えている私に抱っこしてほしがる。 身体も拭き終わってないのにそれをやられると、お腹が毛で真っ黒になった。

 シロさんは私が台所に行くとひゃあ、と鳴いてついてくる。なあに? と言うと、ぐでーんと寝転がってお腹を出す。触ってほしい時の合図だ。こんなにひとなつこくて、よく野良猫なんかできたなと思う。待てよ、子供ができたから追い出されたのかな。そんなふしだらな娘はいらん、とかなんとか言われて。

 それで父のことを思い出した。

 父は、事あるごとに亡くなった母を罵った。春代はどういう教育をしてきたんだ、そんな育ち方は工藤の家では考えられない、すぐに改めなさい。そして育ちが貧しいことをまるで悪いことのように軽蔑した言葉で罵倒するのだ。

 このひとと母が離婚して、本当によかったと思う。

 こんな条件付きじゃないと愛してくれないような父親がいたら、子供は自己肯定感のとてつもなく低い子になるか、全能感を持って育つかのどちらかになるだろう。

 父は、養育費を払わなかったばかりに私に辛い思いをさせたと言っては大学に行くことを勧め、盛大な結婚式を挙げることを勧め、名古屋に引っ越すことを勧めてきた。

 今更大学なんか行ったって意味はないし、挙式なんて興味ない。それに、私はこのお店での暮らしが気に入っている。店長と離れるなんて、想像もできない。だから、父になにか提案されるたびに断った。父がまるで私を壊れ物の人形のように扱うので、段々と話すのが苦痛になってきた。お金でなんでも解決しようとするその姿勢に、父のいやらしさを垣間見たような気がした。お母さん、私は確かにお金で苦労してきたけど、お金より大切なものをいっぱい見て育った。ひとの心の温かさ、物を大切にする気持ち、どんな食材でも残さない食べ物に対する敬意の念。貧しい暮らしはしてきたけれど、それを不便ではあるが不幸だと思ったことは一度もない。義理の兄がいる、と聞いた時、なんでそんなことが言えるんだろう、正直にそう思った。義兄は二十七歳だという。そしたら私と三つ違いになる。

 四つの子供を養育するお金があったのなら、実の娘を援助することだってできたはずだ。 そうしたら私の幼少時代はもっと恵まれていたものだったかもしれないし、母もあんなに根をつめて働かずにすんだかもしれない。母は今だって生きているかもしれないのだ。

 そう思うとやり切れなくなって、父と話すのが嫌になってきた。

 私の名前はさつきなのに、誕生日の直後にやってきて、なのにそんなことは忘れてしまったように振る舞う父を見て、このひとは単に私を罪滅ぼしの材料にしたいんだな、と思った。良心が痛むから、こうしているんだ。だから店に来るたび、早く帰って下さい、と思うようになっていった。やめてください。工藤の家っていうけど、私が工藤さつきだったことなんて一瞬でしかない。私は如月さつきとして育ち、橘さつきになった。それでよかったと思っている。

 父は、またお店のことを悪し様に言うことにも容赦なかった。

 毎日のようにやってきては、場末の飲み屋だとか汚い店だとか言って私の神経を鉋で削るみたいにして削いでいった。店内はどこもぴかぴかで気持ちいいのに、父はそんなことはまるで目に見えていないようだった。そしてそこはかとなくわからないように店長の悪口を言うと、満足したかのように帰って行くのだ。

 仕事が忙しくなったのか、父は来なくなった。その代わりにあいつが来るようになった。 あいつはお店のなかに入ることすらしないで私を待ち伏せしてきた。橘さんと別れて僕と結婚しようよ、未来の社長夫人だよ、いい生活ができるよ。彼は毎日のように言い、言っては勝ち誇ったように私を馬鹿にした目で嗤うのだ。自分でなにもしてないくせに、と思った。自分で築き上げていないものをあたかもそうしたかのように振る舞うのは、知性が欠けている証拠だとなにかの本に書いてあった。その通りだと思う。彼は父の築き上げた小さな帝国の裸の王様、そんな風にしか見えなかった。

 流産のことは、特になんとも思っていない。

 元々気がついていなかったし、知っていて毎日その日を楽しみしたり、いつから動くのかな、とかどんな名前にしようかな、とか考えていたりしていたのならショックだったかもしれないが、なにも知らずにお腹のなかで死んでしまったと聞かされては、単にご縁がなかったんですねとしか言いようがない。お医者さんはしばらくしたら胎児になるはずだったものが自然に出てくるでしょう、と言っていた。

 それは、病院から帰ってきて三日くらいして起こった。

 少しの出血がおりものに混じってまた出血し始めたとき、私はお客さんがいなくて厨房で時間を潰していた。そしたら生理の二日目ぐらいの量の血が出始めてお腹の下の方が痛くなった。八時頃、店長と夕食を食べている時に急にお腹が痛くなってきて、片付けが終わって三十分くらいしてからは、ロッカーの隣のソファでうずくまっていた。座ったまま、大量の血が流れているのを感じた。急激な痛みがあって十分くらいして、ぽこっと小さな固いものが出てきたのがわかった。そこで一度痛いのが和らいで、でもまだ痛いのは続いていたので、立てるかどうか試してみたら立てたので立ち上がってみると、なにかがずるっと出てきて挟まったのが感じられた。その後も定期的に痛みは続いていたが、もう立てなくなるようなことはなくなっていた。お店が終わる頃にはだいぶそれは引いて来ていて、また最後になにか出て来たけどそれで出血はなくなった。お手洗いで汚れものを捨てて部屋に帰って、寝るために横になっていてもなかなか眠れなかった。

 あの出てきたものが、私たちの子供になるはずだったんだ。男の子だったのかな女の子だったのかな。店長と私、どちらに似るんだろう。子供が生まれたりしたら、お店はどうなるんだろう。そんなことを考えていたら、なんだか急に悲しくなって唇を噛んだ。そしたらもう寝たと思っていた店長が後ろから抱き着いてきて、私は驚いて後ろを振り向いた。

 店長はなにも言わずに、私をじっと見ていた。

 そして身体をそちらの方に向けた私をぎゅっと抱き締めると、店長はその姿勢のまま眠ってしまった。どうしたんだろう、なにがあったんだろう――そんなことを考えている内に、店長も悲しいんだということがわかってきた。そしたらなんだか安心して、私は店長に抱き締められたままいつの間にか眠ってしまっていた。

 八月になった。

 父もあいつも、次第に来なくなってきていた。それでいい、そしてそのまま私のことを忘れてくれれば、そう思っていた。

 ある日の月曜日、お風呂に入って髪を乾かしてからタマとシロさんと仔猫たちにえさをやって、猫たちが夢中になってそれを食べているのを見ていたら、急にあいつの言葉がいくつも思い出された。

 淫売、売女、愛人。

 あからさまな棘を含んだそれらの言葉は、気にしないようにしていても深く刺さってなかなか抜けなかった。私と結婚したいのなら私が嫌がることをなんでするんだろう、このひとは私のことが好きで結婚するんじゃないんだな、そう思っていた。

 そしたらあの日、手を掴まれたことを思い出した。

 遠慮のない、汗ばんだ手のひら。容赦なく私を連れて行こうとする意志が見えたし、あの蔑みに満ちた目で見られていると自分が心のないものになったような気がした。

 そんなことを思い出してじっと固まっていると、お風呂から店長が出てきた。店長は髪を拭きながらいつもみたいに上半身裸で浴室のドアを開けると、固まっているままの私を見て立ち止まった。そしてゆっくりとこちらの方に歩いてくると私を抱き上げ、そのままベッドに連れて行って私を抱いた。そんなことはこの一週間くらいの間なかったのでちょっと驚いた。それに、店長は私を抱くときいつも必ず避妊するのに、この時だけはそうしようとしなかった。事が終わってからも、いつもは煙草を吸って一息入れるのが常だというのに、この時ばかりは私をずっと抱き締めて、そのまま離さなかった。

 ネットの掲示を見て、仔猫をもらいたい、興味がある、見るだけ見て考えてもいいか、というひとが四人ほど見つかった。タマを拾った公園で、仔猫たちにお見合いしてもらった。そんなときもタマとシロさんはついてきて、仔猫を抱いてちっちゃーい、かわいい、と歓声を上げるひとたちの足元にすり寄っていた。結果、てぶくろさんとくつしたさんと互い違いさん、そしてクロさんが引き取られることになった。しかし、まだ月齢が若いのですぐに渡すことはできない。そのために準備することもあった。

 昔から、猫を貰ってもらうときは鰹節を贈ると聞く。今時鰹節なんて探すのが大変だから、店長と話し合ってふだん食べているえさを仔猫と一緒に渡すことにした。そしてお見合いをした公園で仔猫とえさを渡してしまうと、あとには私と店長、タマとシロさんとおぱんつさんだけが残された。

「行っちゃいましたね」

 ああ、と店長は煙草を取り出しながらこたえた。そして部屋に帰って行くと、仔猫がいなくなった部屋は急に広く見えた。

「おぱんつさんだけ貰い手がなかったね。名前がよくなかったかな?」

 おもちゃで遊びながらそんなことを呟いていると、店長はすっかり猫屋敷だね、と言った。去年は一匹、今は三匹。猫屋敷と呼ぶには大袈裟かもしれないが、数が増えたことには変わりない。

 あの時から考えていたことを、父たちが帰って行く前にすませてしまわないといけないと思っていた。

「店長、ちょっと教えてほしいことがあるんですけど」

 店長の帳簿づけが終わったのを確認して、私は言った。そして自分の考えを話した。「……それは司法書士だな」

 探せば近くにいるだろう、と言いながら、店長はネットで新宿の司法書士事務所を探し始めた。そしてそこの事務所に行くと、私は手続きを頼んで帰ってきた。書類が出来るまで、ひと月くらいかかるという。間に合うといいな、と思っていたら、書類は一か月後に出来た。

 それから三日ぐらいして父がお店に来て、仕事が立て込んできたので名古屋に帰らなければならないと告げた。これでこのひとたちと顔を合わせなくてすむと思うと、心からほっとした。まさか今日来るとは思っていなかったので、書類を持ってきていない。父にいつ帰るのかと聞くと、明日の午後過ぎだという。

「私が行くよ」

 店長が煙草を吸いながらなんでもないことのように言う。そのほうが気が楽でしょ、店長は静かに言った。

 買い出しに行くと、無意識の内にあいつがいないか確認していることに気づいてため息が出た。もうこんな生活はしなくていいんだ。よかった。

 道端に、今年も立葵が咲いている。


 秋が来て涼しくなってくると、店長の衣替えの時期だ。店長は面倒なことを嫌う。なにしろ、かきまぜるのが面倒という理由で納豆が嫌いなくらいだから。この時代に携帯電話を持っていないのは、そうすることで人としがらみができてしまうのが面倒だからだ。電話がかかってくれば出ないといけないし、メッセージが来たらその返事をしなくてはならない。私たちの生活は現代人らしくはなかったけど、でも私たちらしいと言えた。

 クリスマスの季節がやってきた。

 十二月のある月曜日、二人で街に出た。そして新宿のデパートに行くと、二時間後に待ち合わせることを約束して、そこで分かれた。お互いの誕生日とクリスマスはお祝いするようにしよう、と話し合って決めたのだが、そのプレゼントの買い出しをするためだ。なにを贈るかは、前もって決めておいた。カシミアの、黒いストールみたいに幅の大きなマフラー。

 店長は冬になるとコートを着るが、首元がいつも寒そうなので安直にこれにした。店長が服を買う場所をしまってある服から調べて行って、その服を売っているお店で無事プレゼントが買えた。

 それと同時に、いいものを見つけてしまった。

 黒無地に、胸元に小さく黄色い猫の目と白いひげだけが描かれたセーター。シロさんみたい、そう思ってそれも買った。これは来年のクリスマス用だ。

 冬の新宿は、いつもの色々なにおいがないまぜになって猥雑な感じから、鼻の奥がつんとする空気を孕んで変化する。そんなことを知ったのも、新宿に来てからだ。プレゼントが早く買えたので、デパートをぶらぶらと歩いた。女物が売っている売り場に行くと店長と鉢合わせするかもしれないので、本屋さんに行った。相変わらず新しいインクのにおいがして、紙のにおいがして、いるべき場所に帰ってきたような気分になる。好きな作家さんの新刊が出ていたので、タイトルをチェックしておいた。部屋に戻ったら早速ダウンロードだ。

 で、二時間が過ぎて、店長と待ち合わせの場所で落ち合った。私は大きな包みを持っているのに、店長はなにも持っていない。見つからなかったのかな、とも思ったが、探りをいれるようになってしまうので聞くのはやめておいた。

 いつものようにお店での時間が過ぎて行って、クリスマスの日、買い出しのついでにケーキを買った。大きいの買ってきて、店長が言ったので、切り株の形をしているケーキにした。

 そしてお客がいなくなった夜中頃に、二人と三匹でケーキを食べた。あとはプレゼントを交換するだけだ。

 店長気に入ってくれるかな。どうだろうな。

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