拓斗

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 拓斗は、どうすればさつきの気持ちが自分になびくかを懸命に考えていた。

 彼は、小さい頃から欲しいものはすべて手に入れてきた。四歳の時に母が今の父と再婚したので、金銭的に困った記憶はない。

 父は、お前を立派な私の跡継ぎにするぞ、と四つの子供に向かって言った。そして彼の望むことなら、どんなことでもかなえてくれた。

 限定販売で売り切れになったおもちゃ、一つ五万円もする特別栽培の果物、誕生日には、工藤家の居間は贈り物で埋まった。盛大な誕生日会を毎年催し、それに好きな女の子が来てくれないことを知った拓斗は、それを父に言いつけた。すると父は、その女の子の親に金を渡してその子に誕生日会に来させた。

 なんらかのイベントがあるたび、父は言った。

 さつきにこれをしてやれたらなあ。さつきはこんないい思いはしていないかもしれない。 さつきはどうしているだろう。

 さつき。さつき。さつき。

 幼少期から聞き続けてきたその名前に、拓斗は憎悪と共に憧れを抱いた。

 お父さんがこんなにも気にかけるさつきという女の子は、いったいどんなひとなんだろう。彼は頭のなかで理想のさつきを創り上げ、一日中部屋に籠ってそのさつきと遊んだ。 自分の言うことをなんでも聞くさつき、いつも笑っているさつき、口答えしないさつき。 学校にいる女子みたいに粗雑な子じゃない、大きな口を開けて笑ったりしないし、走り回ることもない。男子掃除ちゃんとやってよ、なんて生意気な口をきくこともない。完璧な女の子だ。

 彼のなかのさつきは彼と共に次第に成長していき、遊び相手から恋愛の対象と成り変わっていった。小さい頃から、父にお前はさつきと将来結婚するんだ、そう言われてきたから、頭のなかで彼女と恋愛することにはなんの抵抗もなかった。

 その見た目のさわやかさと好青年ぶりに騙されて、拓斗に言い寄ってくる女の子たちは一定数いた。彼はそんな彼女たちを馬鹿にしたような目で見つめ、ふんと鼻を鳴らして相手にしなかった。だから二十七になった現在でも、異性と付き合ったことはない。

 成人して大学を卒業し、社会人になるにあたって父の会社に就職した。社長の息子の彼を、周囲は腫れ物にでも触るかのように扱った。そうでもしなければ、自分が困ったことになるからだ。彼はいくつも問題を起こした。

 取り引き先の相手の電話の話し方が気に入らないから怒鳴ってやった、朝起きられなかったから遅刻した、電車が混んでいるのが嫌だから遅い電車にしたら午後に出社になってしまった、そんなことはざらにあった。電話番すらできないので、彼はオフィスの隅の席で一人、漫画を読んで一日を過ごした。子供のまま大人になった、そんな形容がぴったりな人間、それが拓斗だった。

 そんなある日、父がさつきを探すことにしたという。

 またさつきか。

 彼は内心で舌打ちした。いや待てよ。どうせ僕は彼女と結婚することになるんだし、これはいい機会だ。

 頭のなかのさつきは、妙齢の美しい女になっていた。そのさつきと結婚して、工藤の家を継ぐ。拓斗の理想はあと一歩で完全なものになろうとしていた。

 さつきと結婚したら、僕がすべてを管理するんだ。買い物になんて行って、他の男に目がいったら嫌だから外には行かせない。人を雇って行かせればいい。家事も完璧にこなせなくちゃだめだ。女なんて家にいるからこそ居場所があるんだから、働かせるなんて以ての外だ。それに、工藤家はそんなに貧しくない。女が外に働きに出るなんて、恥ずかしいことだ。自己主張なんてものをさつきがしようものなら、男の権威にかけて張り倒してやる。生理中だって僕の管理下だ。僕が選んだ生理用品で日中を過ごし、出血量や開始日、期間、生理痛の有無も報告してもらう。生理周期を知ることは、いい夫婦生活を送るためには不可欠だ。女なんて、所詮は子供を産むためのものだ。子供を産んで初めて、女は一人前になるんだ。

 さつき探しは難航した。

 クレジットカードの利用履歴から調べられることも、本人がそのカードを持っていなければ通用しない。それでも、高校を卒業して働いていることまではわかった。問題はその後だ。やくざの愛人になって姿を消し、今は新宿で働いているという。

 見下げ果てた女だ。

 拓斗は忌々しそうに唾を吐くとそう呟いた。さつきは、完璧な女性でなければならない。 処女でないなんて、だめだ。いや待てよ。床上手な方がいいのかもしれない。相手がやくざだったら、きっと色々と教えられているはずだ。これはいいぞ。

 しかしようやく出会ったさつきは、なんと結婚しているという。その事実は拓斗を打ちのめした。だが実際に会ってみると、さつきは想像以上にきれいな女だった。頭のなかの理想のさつき像が、その瞬間消し飛んでしまうほどに。

 これは、粘ればいけるかもしれない。

 拓斗は考えた。相手の男は一体なにを考えているのかさっぱりわからない男だったが、新宿のあんな場所で水商売をしているということはろくな前歴ではないだろう。きっとあいつの面の良さに、さつきは騙されているんだ。

 彼は毎日さつきに会いに行った。

 女性と付き合ったことのない拓斗は、女の口説き方など当然知らなかった。彼が言いたいことを言っても、笑顔ではいわかりましたとこたえる、頭のなかのさつきはそんな女性だった。

 実社会のさつきは、そうはいかなかった。

 彼が顔を見せるとほんのりと嫌そうに眉を寄せ、次第に彼の存在を無視するようになった。橘にも会いに行って別れるよう行ったが、こちらの効き目があったかどうかは疑わしい。父が小切手を渡しているはずだ。少なかったのかな。もっと払えということなのかな。 そうすれば別れてくれるかもしれない。さつきだって今はあんな反応をしているけれど、本当の僕を知ったら私が間違っていましたと言うに違いないのだ。

 そんな思いを胸に抱いて、拓斗は今日もやってきた。

 やあ、と声をかけると、さつきは自分をちらりと見て会釈する。その生意気な態度も、今の内だ。

「ねえ、少しでいいから話を聞いてよ」

 さつきが花屋から出てきたところを見計らって、拓斗は声をかけた。さつきはそれが聞こえないかのように、まっすぐ前を向いて一心に歩いている。

「橘さんと別れなよ。あんな男のどこがいいの? 薄汚い商売人じゃないか」

 そういえば、あの男の身上調査をしていない。してみようかな。弱みが握れるかもしれない。そうしたら、二人は晴れて離婚だ。

「僕は君のことならなんでも知ってる。華道部にいたことも、本が好きなことも、初めての男性がどんな男だったかも」

 <Chatoyancy>の従業員用の階段までやってきて、その言葉でさつきはかっとなった。

「ほっといて下さい。店長はそんなこと気にしません」

「なんでそんなことわかるの? 彼に聞いてみたの?」

 さつきが彼を無視して階段を下りようとしているので、拓斗はその細い手首を掴んだ。

「離して」

「だめだね。橘さんと別れる、別れて僕と結婚するって言うまでは」

 ぐっと握った手に力が込められて、さつきは悲鳴を上げた。英二はそれを、厨房で聞き取った。

「やめて。大声出すわよ」

 さつきに睨まれて、拓斗は一瞬怯んだ。この女がこんな目で僕を見るなんて。拓斗はさつきの手首を握る手を緩めた。そしてトン、と何気なくその肩を押した。

 しかしその力は、押した本人が思ったよりもずっと強かった。

「あっ……」

 拓斗が声を上げるのと同時に、さつきはこちらを向いたまま階段から飛ぶように落ちて行った。

「おっと」

 叫び声を聞いて階段を昇って来ていた英二が、間一髪のところでそれを受け止めた。英二は突然落ちてきたさつきに驚くこともなく、大丈夫? と声をかけている。さつきが何事かそれにこたえ、英二は黙って階段の上を見上げた。

 その何気ない視線に、またも拓斗は怯んだ。

 いつどんな時も金で物事を解決してきた拓斗が理解できない、金で動かない男。橘英二というこの未知の存在を、拓斗は心のどこかで恐れていた。

「なかに入ろう」

 英二は拓斗を無視してさつきに言うと、その手を引いて荷物を持ち階段を下に向かって降り始めた。

「あ……」

 それについていこうとしたさつきであったが、突然腹部に鋭い痛みを覚えて立ち止まった。下半身に不快感を覚えた、と思った途端、足を伝って血が流れた。

「――」

 なんで? 生理でもないのに。さつきは青くなった。また腹が痛んで、思わずしゃがみ込んだ。あいつまだいるかな、そう思って顔を上げたら、もう拓斗はそこにはいなかった。


 病室から出てきた医師は英二を見ると、どういうご関係の方ですか、と尋ねてきた。夫です、と言うと、ではお話ししましょうと医師は表情を崩さず言った。

「稽留流産……?」

「胎児、この場合は胎芽ですが、それが子宮内で死亡し、子宮内に停滞しているけれど母体に自覚症状がないのが特徴です。ご本人も知らなかったようですし、この週数なら自然排出されるでしょう」

 医師を見送って、英二は病室に入った。さつきは、ベッドの上で起き上がっていた。

「店長……」

 なにか言おうとするさつきを、英二は手を上げて止めた。そしてそこに座ると、

「あいつ、いつからあんなことを?」

 切り込むように尋ねた。

「……」

 怒られる――さつきはぎゅっと拳を握った。

「……父がお店に来なくなった頃からです」

 それはもう二か月も前のことだ。英二が深々とため息をついた。自分に落胆している、さつきは直感した。

「すみませんでした。私の家族のせいで……」

「さつき」

 英二は彼女を遮った。その強い語調に、さつきは顔を上げた。

「私も家族だよ。さつきの問題は、私の問題だ」

「――」

「結婚したんだから、そんな遠慮はしなくていいよ」

 胸の奥からなにかが込み上げてきて、さつきは泣きそうになった。慌てて目をこすると、英二になにを言っていいのかわからなくなった。

「残念だったね」

 英二は静かに言った。流産のことを言っているのだ。

「……」

 その言葉でさつきはようやく落ち着きを取り戻して、うつむいていた顔を上げた。

「ストレスが多いとそうなってしまうみたいです。週数が早いから、どのみち流産でしたねって言われました」

「そう」

 英二は特に何の感慨もないようにこたえると、

「今日は帰っていいって。もうしばらくここにいる?」

「あ、いえ、帰ります」

「店は今日は休みだな」

 さつきは慌ててベッドから下りた。

「そんなことしないでください。私、お店に出たいです」

「でも」

「働いてたほうが気が紛れます。今はなにも考えたくないんです」

「……そう」

 今ならまだ間に合うかもね、英二はいつものように感情の籠っていない声で言うと、さつきの手を引いて歩き始めた。

 二人はその夜も、何事もなかったように<Chatoyancy>で夜を過ごした。

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