兆候

 電子書籍を読むようになってから本屋さんに行かなくなったな、さつきはそんなことを考えていた。本屋の空気は好きだ。紙とインクのにおいがするし、洒落た文房具なんかも売っていて、買うことはないがそれらを見ているだけでも面白い。それに、当たり前だが本屋には本がある。どんな新刊が出たんだろう、これはどういうお話だろう、あ、あの作家さん別の本出してる。そんなことを考えながら店内を歩くのは楽しい。

 そんなことをやっていると英二がやってきて、いい本はあった? と聞いてくる。彼の手にも本が数冊あった。そしてそれぞれ欲しかった本見つけた本を買い求めて、部屋に帰って行く。休みの日は一日だけだから、それだけで休日は終了してしまう。

 しかし、電子書籍を買って読むとなると、外出しなくなる。二人は遅い時間に起きてきて朝食兼昼食を食べ、それからめいめいのタブレットで本を読むという暮らしに明け暮れていた。

 たまには出かけた方がいいのかな、世間の夫婦はどうやって休日を過ごしているんだろう。デートとかかな。そういえば、私店長とデートしたことないな。お付き合いしてた記憶もないな。さつきはそんなことを考えた。出会って一週間で身体の関係を持ち、三か月して一緒に暮らし始めた。それは、父からしたら確かに眉を顰めるものであるのかもしれない。諦めないよ、拓斗の言葉が思い出される。あの時の彼の目を思い出して、少し寒気がした。なにを考えているんだろう、なにをするつもりなんだろう、そんなことを考えているとタマがやってきて、身体をこすりつけてきた。シロもとことことやってきた。その後ろからは、五匹の仔猫がついてきた。

 さつきは立ち上がって猫たちにえさをやった。もうそんな時間か、そう思っていた。

 それを見透かしたかのように、英二が台所にやってきて冷蔵庫を開けた。今日は彼が食事を作る日である。

 さつきはテーブルを拭いて、箸を出しランチョンマットを敷いた。これは一緒に住むようになってから知った事であるが、英二はこうして膳を準備する。お家でそうしていたのかな、とさつきは思った。それから台所に入って、今日はなににしましょうと英二と話しながら包丁を出す。英二は食材を出し、さつきに手伝ってもらいながら料理していく。

「来週本屋に行ってみるか」

 さつきが考えていたことを知っているかのように、食事をしながら英二は言った。

「いいですね」

 タブレットで本を読むようになってから行かなくなったね、英二は言う。さつきはくす、と笑う。どうして私が考えてたことがわかるんだろう。心でも読めるのかな。店長だったらそれもありだな。いつも無表情なのはきっと心が読めることを知られないために……

「――の、ことだけど」

 え? と顔を上げた。よく聞いていなかった。

「仔猫のことだけど」

 英二はベッドの側で遊ぶ仔猫たちを横目で見ている。

「タマとシロを手術してくれた獣医に頼むのはどうかな」

「欲しいってひと来ませんものね」

 相変わらず、里親募集の紙は入り口に貼られていた。しかし、仔猫が欲しいという客は一人として現れない。

「このままじゃうちが猫屋敷になるし」

 どうでもいいように言う英二を見て、さつきはまた笑った。その声は、この部屋がもし猫屋敷になったとしてもお構いなしと言いたげであった。

 シロの血をひいたのか、五匹いる仔猫のうち五匹とも身体が黒かった。そのなかでも、前足だけが白い仔猫、後ろ脚だけが白い仔猫、互い違いに白い足の仔猫、そして真っ黒な仔猫が二匹いる。さつきはそれぞれをてぶくろさん、くつしたさん、互い違いさん、クロさんと呼んだ。黒い仔猫のうち一匹は腹から下が白く、それを見つけたさつきはその仔猫におぱんつさんと名づけた。

「ネットでも募集してみましょうか」

「欲しいってひとがいたらどうやって対面させるかも考えないとね」

 そうでした、さつきは箸を動かしながら考える。<Chatoyancy>の客がもし仔猫を欲しいと言ってきたら、どうしようか。部屋まで来てもらうわけにはいかないし、店に連れて行くか。

 食事が終わると、それぞれベッドの上で本を読んだ。早く入浴すると、夜の時間がいっぱい取れていいな、さつきは思う。会社勤めしてるときは慌ただしかったな。仕事終わって、部屋に戻って、ご飯食べてお風呂入って、すぐに寝る。じゃないと朝起きられないくらい疲れていたから。自分の時間なんて、無いに等しかった。

 さつきは顔を上げた。

 あの時から比べると、私は格段にいい生活をしている。

 仕事は忙しいが、時間に追われて疲労困憊というわけではない。それに、金銭的にも楽になった。かつては昼働いて、夜も働いていた。そうでもしないと生活していけなかったからだ。ちらりと後ろを見ると、英二が仔猫を腹の上に乗せて本を読んでいる。

 店長に会ってからだ。私の生活が変わったのは。

 正体のわからない男と結婚なんかして――拓斗の言葉が蘇る。

 それを振り切るように首を振った。確かに店長のことそんなに知らないけど、正体がわからないわけじゃない。すると、今度はやくざの愛人なんかやってたくせに、という拓斗の言葉が思い出された。そりゃ後ろ暗い過去があるけど、それがなかったら店長にも会えなかった。あれは、起こるべくして起こったことだったんだ。

 せっかくの休みの日なのに拓斗のことを思い出してしまって、さつきはふう、とため息をついた。

 定休日の翌日の火曜日は、睡眠をたっぷり取れるため早めに目が覚める。そして結局やることがなくなって、一時ごろ店に行くのだ。

 この日も買い出しに出かけたさつきを、拓斗は待ち伏せしていた。

「やあ」

 にやにやと笑いを浮かべて電柱の影から姿を現わした拓斗は、この暑いのに汗もかいていない。さつきは一瞬立ち止まって、そしてなにもなかったように歩き出した。拓斗はその後についてきた。

「いつ橘さんと別れるの?」

 ついてこないで、あっち行って――さつきは顔を伏せながらそんなことを考えていた。 願っていたと言ってもいい。

「橘さんは君のことどれくらい知ってるの?」

 拓斗はそんなさつきの正面に立ちはだかった。

「――」

「やくざの愛人やってたこと、知ってるの。金が欲しくて身体売り渡した淫乱だって教えてあげたら」

 かっとなって顔を上げた。なにも知らないくせに。私と店長の間に入って来ないで。

「なに? 怖くなんかないよ」

 食料品店に着いてなかに入ろうとすると、拓斗はもう追って来ようとはしなかった。ほっとして花屋に行くと、夏ならではの花が所狭しと置かれている。

 さつきは、百合が好きではない。においが強烈で、頭が痛くなるからだ。それに、花が開くのと同時にめしべの花粉を処理しなければならないのも嫌だった。その花粉が服につくと容易にとれないことを思うと、まるで女王が自分のテリトリーを声高に主張しているようで気が滅入ってしまう。だから、百合は初めから選択肢にない。

 ガーベラ、桔梗、千日紅、あ、トケイソウがある。珍しいな。

 なかでも、レモン色の小さなひまわりは目を引いた。ひまわり、夏にぴったりなんだよな。トケイソウとひまわりなんて、変な組み合わせかな。すっかり顔なじみになった店主と話しながら、さつきは今日の花を決めた。

 表に出ると、じっとりと汗がにじんでくる。新宿は、色々なにおいがする。雑多な街のそれは、生まれ育った谷中のものでも、夜の仕事をしていた池袋のものとも、微妙に違う。 まだ拓斗がいるかもしれないと思ってきょろきょろ辺りを見回したが、それは杞憂に終わった。さつきは花を抱えて店に戻った。そして花を水切りし、買ってきた食料を冷蔵庫にしまうと、表に行って英二に戻りました、と声をかけた。

「ひまわり?」

 英二はグラスを磨く手を止めて顔を上げた。はい、さつきは笑顔になる。

「トケイソウがあったのでお手洗いにはトケイソウをと思って」

 それに、さつきは続けた。

「お花屋さんの人にひまわりの花言葉聞いたら、なんかひまわりにしたくなって」

「花言葉?」

 花に花言葉があることなど、今知った。さつきと出会う以前は、そんなものとは無縁であったのだ。はい、さつきはひまわりの茎を切りながら言った。

「『あなただけを見つめる』だそうです」

 特に感想が浮かばない。ふうん、とだけこたえて、さつきが花を活ける様を見る。

 さつきはひまわりと青い花を活けてしまうと厨房へ行き、白い、見たこともないような花を抱えて手洗いに入って行った。

 

 拓斗は、毎日のようにさつきを待ち伏せしてやって来た。

「君が工藤の家の人間だなんて、僕は認めないよ。工藤の家には、僕がふさわしいから」

「貧しい、卑しい家庭の育ちなんだから、諦めなよ。でも工藤の血をひいてるんだから、それだけでも感謝しなくちゃね」

「橘さんとは、いつ別れるの? 君の過去知ったら彼だって迷うことなく君を捨てるよ」 さつきは彼の方を見もしないで、黙々と歩いて行く。どんなに慣れたつもりでも、彼の罵詈雑言はさつきの心を少しずつ剥いでいった。

「そんな君のこと知ってて僕が結婚してあげるって言ってるんだから、そうしなよ。玉の輿じゃん」

 今日も拓斗はやってきて、腕を組みながらにやにや笑いを浮かべてあれやこれやと言ってくる。帰って。二度とここに来ないで。さつきは心のなかで念じながら、黙って歩いて行く。

 その日も拓斗の口撃を躱して、さつきは買い出しから戻ってきた。そして英二に声をかけると、花瓶に水を満たそうと水道の蛇口を開けた。

「――」

 あれ? なんだろう。世界が回る。

 ぐら、と風景が揺れたと思ったら、どこかでなにかが倒れる音がした。それからの記憶はない。ふわりと身体が浮く感じがして、気がついたら英二に抱き上げられてロッカー横のソファに寝かされていた。彼はそっと言った。

「生理中じゃないよね」

「……はい」

 暑いからかな、英二はなんでもないことのように呟くと、氷と濡らしたタオルを持って来た。さつきはぼーっと厨房の壁を見つめていた。私、どうしたんだろう。なんでこんなとこにいるの? 頭がくらくらする。足が震えてる。英二が氷を乗せたタオルを額に置いた。

「倒れたんだよ」

 そんなさつきの心を読んだかのように、英二は静かに言った。ふと彼が髪をかきあげた拍子に、彼の髪のにおいがした。店長のにおい。あいつとは違う。あいつは男のくせに香水なんかつけてるもの。だから近寄って来るとすぐにわかる。

「しばらくそうしてて」

 開店までにはまだ時間あるから、と言われて、さつきはそれに素直に従った。額に乗せられたタオルのなかの氷がすべて溶けた頃には、頭がくらくらすることも足が震えることもなくなった。さつきは今何時だろう、と思いながら流しに置いたままの花瓶を取りに流しまで歩いた。よし、と呟く。もう立ちくらみもしない。ただの貧血だ。

 そして何事もなかったように花を活けると、観葉植物に水をやった。

 英二はそれを、ただ黙ってじっと見ていた。

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