義兄
その夜は、客があまり来なかった。
それでも客が来なくなるまでは開店しているので、二人は黙ってじっと来客を待っていた。シロが厨房の入り口を横切っていった。ロッカーの横のソファにでも行くのだろう。 三時になっても誰も来ないので、少し早いが閉店にすることにした。片付けを簡単にして、看板をしまう。猫二匹と一緒に表に出ると、夏の暑い空気がむっと漂っている。空が明るいので顔を上げると、三日月が光っていた。
『月がきれいですね』という言葉を、I love youと訳したのは漱石だったか、英二がそんなことを考えていると、
「あ、店長月がきれいですよ」
とさつきが顔を上げた。ふふ、と喉の奥で笑って、そうだねとこたえた。
さつきの父は、さすがに仕事が忙しくなったのか最近は来ない。拓斗もそれを手伝っているのか、あの日英二にさつきと別れるよう言ったきり姿を見せない。そのままいつの間にかいなくなってくれるといいな、とさつきが思っていたある日の火曜日、いつもより早く店に着いて、ふたりはゆっくりと準備を始めた。銀行に行ってくるよ、英二はさつきに言った。
そしてそれを狙ったように、拓斗がやってきた。
忘れた頃にやってくるのは災難となんだっけ、とさつきが考えながら拓斗にカウンターの椅子を勧めると、彼はそうはせずにソファの席に行って座った。
「さつきちゃんも座らない?」
拓斗は晴れやかな笑顔で言った。火曜日でいつもより早く来ているし、まだ平気かな、と思い、素直にそこに座った。すると拓斗は驚いたことに隣に寄ってくる。なんだろうこの近さ、とさつきが思う内、拓斗は話し始めていた。
「お父さんは僕が小さい頃からいつも君のことを考えていたよ」
なんとこたえていいのかわからない。
「七五三のたび入学式のたび卒業式のたび、お父さんはこう言うんだ。『可哀想に、さつきにはこれがしてやれないんだ』。僕は思ったね、僕の七五三なのに、僕の入学式なのに、なんでお父さんは会ったこともないさつきって子のことばかり言うんだろう。主役は僕なのに、僕は息子なのにってね」
「……」
「そのくせ僕にはこう言うんだ。『お前が私の跡を継ぐんだ。お前は跡取りなんだ』」
店長早く帰ってこないかな、さつきはそれだけを考えていた。
「僕に好きな子がいると知ると、お父さんはよく言ったよ、『だめだだめだ。お前はさつきと結婚するんだ。さつきと結婚すれば、工藤の家は安心だ』。僕、あの時七歳だったのにね」
「……」
「その内思うようになったよ。会ったことのないさつき、見たこともないさつき、僕の未来のお嫁さんは、どんなに出来がいいんだろうってね」
拓斗は正面を見つめたままである。
「ところが、そんなさつきちゃんは実際にはやくざの愛人やった後にこんな汚い場所で正体もわからない男と結婚してるっていうじゃないか。興覚めだよね」
「――」
「その君と、僕が釣り合うと思う? それでもお父さんが望むから、こうして東京くんだりまでやってきて君に会いに来たんだ。僕が結婚してあげるって言ってるんだから、君はそれに従うべきだよ」
顔を上げてなにかを言おうとする前に、拓斗はこちらを見ていた。
「――」
さつきはその目を、見た。
憎悪に満ちた瞳。
さつきを憎む、強い光を孕んだそれは、いくつもの修羅場をくぐってきたさつきでさえ見たことのないものであった。
「……」
「僕は諦めないよ」
言い捨てると、拓斗は一方的に立ち上がってさっさと階段を昇って行ってしまった。さつきは拓斗に言われたことを頭のなかで反芻しながら、どうしたらいいのかを考えていた。 厨房で物音がした。英二が帰ってきたのだ。
「あれ、誰か来てた?」
いえ、なんでもありません。こうこたえる他なかった。これは、私の父とその子供の問題だ。店長をこれ以上巻き込むわけにはいかない。
さつきは、小さい頃から母と二人で暮らしてきた。病弱な母を困らせてはいけない、幼心にもそう思っていた。だからさつきは、家族にも頼らない生き方をしてきた。どうやって人に頼っていいかなど、わからなかった。
さつきは何事もなかったかのように立ち上がって無理矢理笑顔を作ると、
「買い出しに行ってきます」
と裏口から出て行った。
うだるような暑さのなか歩いて行くさつきを、拓斗は物陰からじっと見ていた。
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