父
父は開店前に毎日のようにやってきた。
こちらの都合など考えていないその訪問を、どう断ればいいかでさつきは悩んでいる。
なんと言えば、角が立たないか。なんと言って、帰ってもらおうか。
「大学に進学しなかったんだろう。可哀想にみんな私のせいだ。今からでも遅くはない、大学に行きなさい」
「春代はいったいどういう教育をしてきたのかね。そんなことは工藤の家では許されない」
「次の休みの日に、みんなで食事に行こう。食べたことのないようなものを食わせてやるぞ」
その日も父はやってきて、買い出しに行くというさつきを送り出して店内でソファに座っていた。と、おもむろに立ち上がると、彼はカウンターでグラスを磨く英二の元へ来た。 なんだろうと思って顔を上げると、カウンターの席に座りながら工藤は懐からなにかを取り出した。
「――」
小切手だった。
「娘と別れてくれ」
彼は短く、冷淡に言い放った。
額面のゼロの数を数えている内に、後ろの厨房で物音がした。さつきが帰ってきたのだ。
「さあ早くしまいなさい」
工藤は小切手を無理矢理英二に握らせて、それから入ってきたさつきに向かって晴れやかな笑顔を向けた。
「随分早かったね」
はい、とさつきがこたえる。英二はなにもなかったかのように振り向いた。
「花菖蒲がもう出てました。ちょっと早いけど、でも季節だから」
「おお、それはいい。そんな時期が来たんだねえ」
英二と工藤の間でどんなことがあったかまでは知らず、さつきは困ったように笑った。
開店と同時に、いつも父は出て行く。さつきの働きぶりを見よう、とは思わないらしい。
親ってそんなものかな、英二はそんなことを考えていた。これが自分の両親なら、来る客来る客すべてに挨拶をし、息子がお世話になっていますなどと言い出しかねない。そして自らも客となり、金を落としていくだろう。
まあ親なんてそれぞれみんな違うものだからな、と思いながら、帰って行く工藤に会釈をした。
ふう、とさつきがため息をついた。疲れている。
「進学の話だけど」
英二はそんなさつきの横顔を見て言った。彼女は顔を上げた。
「宝石のデザインの学校、通ってみたら。したかったでしょ」
そんなの、とさつきは首を振った。
「そしたらお店に出られなくなります」
「元々一人でやってたし二年ぐらいなら大丈夫だよ」
「店長」
さつきはカウンターのなかに入ってきて、その下から紙とペンを取り出した。そしてなにかをさらさらと描くと、英二に見せた。
「なにに見えます?」
「……馬」
「猫です」
さつきはまっすぐ英二を見た。
「絵心がないんです。だから諦めたんです。それに、お店の仕事の方が楽しいし」
ふうんと感心して、英二はその絵を見た。これが猫か。およそ猫には見えない。猫と言えば、仔猫はだいぶ大きくなって、早くも離乳の時期となった。さつきは仔猫用の粉ミルクを買ってきて、えさにまぜた。骨が丈夫になるんですって、と彼女は言った。
相変わらず、仔猫が欲しいという客は現れない。
店には、またタマとシロがついてくるようになった。仔猫は日中、部屋で留守番である。
頃合いを見て、タマとシロを去勢避妊手術に連れて行った。猫を入れる籠などないので、獣医にはタマとシロと二人で歩いて行った。タマは日帰りで帰ってきたが、シロは一晩獣医で世話になり、翌日毛を刈られた腹に包帯を巻いて戻ってきた。
服と本を置いてある八畳は猫のための空間となり、仔猫たちはそこで暴れ放題に暴れた。
仔猫が生まれて、英二は煙草を台所の換気扇の前で吸うようになった。こういうところが店長のいいとこなんだな、さつきはしみじみと思う。
翌日も、父はいつものようにやって来た。
「そうだ、会わせたい人がいるんだ」
「会わせたい人……?」
「私の息子だよ」
父は言葉を継いだ。
「と言っても、養子なんだが。再婚した時の妻の連れ子でね」
父はすっかりくつろいだ様子で言う。
「小さい頃から、お前には血の繋がらない妹がいる、いつかお前のお嫁さんになるんだよと言って聞かせたものだ」
さつきはなんと返答していいかわからなくて、曖昧に笑った。
「息子と娘が結婚してくれたら、私も跡継ぎができてひと安心というものだよ」
ああ、だから手切れ金の小切手か。英二は煙草に火をつけながら思っていた。甘く見られたものだ。
次の日、父は息子を連れてやって来た。
日に灼けた、小麦色の肌。くるくるとよく動く大きな瞳はいきいきと輝いていて、待望の相手にようやく会えるという喜びに溢れている。工藤拓斗です、と言った拍子に、白い歯がこぼれた。
「ずっとさつきさんに会いたかったんです」
さつきが麦茶を出すと、拓斗は嬉しそうに言った。
「小さい頃から、父にお前のお嫁さんはさつきというんだ、さつきと結婚するんだよと言われて育ちました」
想像していたよりもずっときれいですねと真正面から言われて、なんとこたえていいのかわからず、さつきは困ったように笑った。
「こんな汚い店で働いているとはとても思えません」
「そうだろう。掃き溜めに鶴というやつだ」
拓斗の言葉に固まっていると、父が横から口を出す。
「それに結婚指輪もみすぼらしくて、僕ならもっといいものを持たせるな」
父が愉快そうに笑った。
どうしよう、さつきは咄嗟にそう思った。英二は、この程度のことで怒る男ではない。 しかし、不快な思いは間違いなくしているだろう。英二の方を見ることが出来ずに、さつきはうつむいた。
「明日は休みだろう。家族で食事に行こうじゃないか」
なんと言って断ろうか、さつきが思案している間に父は英二を誘い、彼はその誘いを受けた。驚いて顔を上げると、なんでもないような顔をしている。
「店長、いいんですか」
店が終わって道を歩きながら、さつきは聞いた。
「まあずっと続くわけじゃないから。娘が見つかって嬉しいんだろう」
タマとシロがじゃれ合うようにして歩いている。公園をみとめると、二匹の猫は走り出した。
定休日の月曜は、やることがたくさんある。
週に一度のシーツを代える日だし、それを洗濯しなくてはならない。掃除は、流行りのロボット型掃除機が仕事に行っている間に掃き掃除も拭き掃除もやってくれる。売り上げの帳簿もつけなくてはならないし、そして買い出しに行って、その日の夕食を作るのだ。
無情にも、その日はすぐにやってきた。
さつきの心の内を表わすかのように、空がどんよりと曇っている。
鏡に向かって服をいくつか見る。どれを着て行っても、粗末な服だと言われそうで気が進まない。英二はいつものように白いシャツブラウスだ。いいものだから大丈夫だろうな、さつきは思った。
「やあ来たね」
言われた場所は、値段が馬鹿高くて有名な、さつきでも知っているレストランだった。
「こんなところは入ったこともないでしょう」
拓斗は相変わらず笑顔である。
食事は味がしなかった。拷問にも近い数時間を、さつきはただ黙って耐えた。
会食が終わって父と拓斗と別れる頃には、さつきはくたくたになっていた。部屋に戻ると、ふうと大きく息をついてベッドに倒れ込んだ。英二が着替えのために八畳に入る気配を感じながら、さつきは店長もよく我慢してるな、と思った。
拓斗は、事あるごとに笑顔で英二の無愛想さをけなした。
誰と会う時でも、そんな顔してるんですか。よくできますね。相手がどう思うかとか、考えないんですか。なに考えてるんですか。
そのたび父は愉快そうに笑って、うちの拓斗はできた息子だろうとさつきに言うのだ。
英二が浴室に行って風呂を沸かしている。いつもなら朝に入浴するところだが、今日は外出したので夜だ。
台所でタマとシロと仔猫たちにえさをやる英二に、さつきは歩み寄って言った。
「店長、ありがとうございます」
彼は振り向いた。
「でも、もうこんなことはありませんから」
しかし、父は明日も来ると言った。そして微妙に開店の準備を邪魔しながら英二とさつきに毒を吐いていくのだ。それを思うと、さつきは気が重くて仕方がない。英二が立ち上がって、お風呂入っちゃいなよ、と言った。彼女の心配事など、気にも留めていないと言いたげであった。
さつきが入浴している間に、英二は服を洗濯してしまおうと思っていた。服を取り出していると、工藤から手渡された小切手が出てきた。
三百万円。
これが娘の値段か。随分と安いな。
小切手を奥に押しやって、洗濯物を抱えると洗面所に行く。さつきはもうすぐ上がるようである。
風呂に入りながら、娘の誕生日の直後にやってきてなにもしようとしない父親のことを、英二は考えていた。ずっと会いたかった娘とようやく邂逅をとげたにしては、誕生日も覚えていないようだ。
さつきの父が<Chatoyancy>に来るようになってから、ひと月が経つ。一体いつまでいるつもりなんだろう、名古屋で会社をやっているというが、会社をこんなに放っておいて大丈夫なのだろうか。大丈夫と言えば、さつきは英二がこんなにも我慢強いことに驚いていた。およそ激情とは縁がないような彼だが、側で聞いているさつきさえひやりとすることを拓斗や父に言われても、平気な顔をしている。店長が怒りませんように、さつきはそのたびに秘かに祈った。
仔猫はだいぶ大きくなった。ネットで里親を募集してみようか、獣医に頼むのはどうだろう、そんな話をしながら店に行く。
その日は父が来なかったのでほっとしていると、買い出しに行く時間である。さつきがいつものように出かけて行くと、店内は英二だけとなった。すると、頭上でドアが開かれる音がして、工藤かな、と思っているとやってきたのは拓斗であった。
「さつきちゃんがいない間に話せたらいいなと思って来ました」
黙っていれば好青年なのに、拓斗の言葉にはいつも棘がある。彼はカウンターの席に座ると、グラスを磨く英二を見据えながら静かに言った。
「彼女と、別れてください」
おや、と思った。父親と同じことを言う。
「僕は工藤の家を背負っています。工藤の家を継ぐのは、僕です。ですが、僕は父の血をひいているわけではありません。さつきちゃんが必要なのです」
拓斗は身を乗り出した。
「僕が父の血をひいているさつきちゃんと結婚すれば、工藤の家は盤石なものになるでしょう。みんなが幸せになれて、万々歳だ。こんな汚い店、月々何十万も払って続ける意味はありませんよ。あなたはそれでいいかもしれない。でも彼女をここに縛るのは間違いだ」
「……」
よく喋るな。
そう思った。さて、なんと言って追い払おう。そう考えている内に、その沈黙を歪んだ形にとらえて、拓斗はにやりと笑った。
「父から結構な額をもらっているんでしょう。僕も払います。あなたみたいな人には、充分すぎる金額だ。それで身を引いて下さい」
言い放つと、英二の返事も聞かずに拓斗はカウンターの椅子から下りた。そして店内を忌々しそうに見渡すと、颯爽と階段を上がって行った。
それと入れ違いに、さつきが帰ってきた。いつものように、戻りました、と声をかけてくる。
「誰か来てました?」
いや誰も、とこたえて、またグラスを磨く。さつきは厨房に行って、冷蔵庫に食材をしまっている。さつきが猫と話す声が、聞こえてくる。しばらくすると花と花瓶を抱えて戻ってきた。
「ちっちゃいひまわりがあったんですけど、ちょっと早いかなと思ってやめちゃいました」」
昔はひまわりと言えば、花も茎も大きく、道端に咲いているものであったが、今は品種改良が進んでいるのか、すっきりとした黄色の小ぶりのものがよく花屋で売られている。
「夏だね」
はい、と笑顔でこたえる。久しぶりに見る晴れやかな顔であった。
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