山崎
山崎
それは大学四年の春だった。
「店を閉める……?」
そうなのよ、店長は身をくねらせながら言った。
「新しい彼氏、事業をやるって張り切ってるの。そのためにはまとまったお金がいるらしいから、ひとつあたしが協力してあげようと思って」
ビールをグラスに注ぎながら、店長はため息をついた。
「このお店も長くやってきたけど、年貢の納め時ね。橘君には悪いけどあたし、彼との愛を選ぶわ」
店を閉めた後の次の業者の契約は済んでいるそうで、秋には受け渡すという。山崎がやってきて、店長となにか話している。驚いている様子を見ると、どうやら商売をやめる話をしているようだ。英二はカウンターに行って水割りをつくった。店長が笑顔でこちらにやってくる。それに引き換え、座っている山崎はため息まじりである。英二は水割りを持って行った。
「これでまた一つ、いい飲み屋がなくなってしまうよ」
山崎は至極残念そうに呟くと、水割りを一口飲んだ。
夜中前に店が終わって、杏子の部屋に行った。すると彼女は起きていて、なにやら荷造りをしている真っ最中である。
「どうしたの」
「あら、来たのね」
杏子は脇目もふらず、一心に箱に荷物を詰めている。これはどうやら、引っ越しのようだ。
「……」
茫然としてその様子を見守る英二に、杏子は言った。
「田舎に帰るのよ。そろそろ結婚しようと思って」
言葉が出なかった。
「あんたもそろそろ本気出して生きてくこと考えなさいよ。こんなおばさんとぶらぶら遊んでちゃだめ」
忙しそうに立ち働く杏子は、わざと英二を見ないようにしている。
「下宿に帰んな。じゃあね」
と追い出されて、仕方なく英二は下宿に戻った。
起きていることを整理しようとして、考えをめぐらせる。しかしどうにも頭は混乱して、うまく働いてくれない。眠れないままに朝が来て、昼になっても眠れず、結局徹夜したまま、英二は<le ciel>に行った。
「あと少しでこの店も終わりか。寂しいよ」
山崎がそんなことを言う。
「――」
杏子の部屋を出てから、あることを英二は考えていた。それはまったくもって絵空事にしか過ぎないものであったのに、夜になってこうして山崎の言葉を聞くと、突然現実味を帯びて彼の前にやってきた。
「山崎さん……」
英二は息を吐いた。
「ちょっと教えてもらえませんか」
山崎は顔を上げて、それからその英二の表情を見て少し驚いたように目を見開いた。
いつも無表情な彼の顔が、なにかを決意したようなものになっていたからである。
まずは場所探しだ。
不動産屋に行くと、色々な物件があった。条件に適して空いている、商売するための店舗。
「ここはどうですか。八坪強ですね」
実際に行ってみるとそこは一階で、歌舞伎町の一丁目である。ひと月四十八万だという。 狭い割に、高い。いや、地上階だとそのくらいなのかもしれない。それにしても高い。 場所がいいからか? 確かに駅前で、好立地だ。
「だめですか。では、ここなんかどうでしょう」
二十六坪のその店舗は、歌舞伎町の二丁目だ。ここも地階だが、家賃は二百三十万もする。共益費だけで百万を越えている。
「共益費が気になるのでしたら、ここの共益費は十九万です」
連れて行かれた歌舞伎町一丁目のその場所は四十五坪と広く、家賃もそれだけ高かった。 いくら共益費が安くたって、家賃が二百万を越すのではなんの意味もない。それに、広すぎて一人でやっていくのには無理がありすぎる。
「広すぎますか。ではここなんかどうでしょう。二十二坪です」
その店舗は、しかし、二階だった。家賃は五十七万と低めだが、やはり地階のほうが客の入りはいいだろう。
「少し広くなって、こんなところもあります」
そこは三階の店だった。二階ですらためらっていたのに、なぜ人が来にくい三階などを、とむっとしていると、三階だというのに家賃は七十五万だという。こんな馬鹿なことはやっていられないと言いたげに息をつくと、不動産屋は言った。
「一階の店舗でしたら、ここなんか。九坪です。二十七万」
前の店舗は焼き鳥屋であったというが、煙のにおいが壁にしみついてしまっている。ここでは落ち着いて酒を飲むことなどまず無理だろう。
「どうだい店探しは」
山崎がやってきて尋ねた。
季節は夏になっていた。
英二が黙って首を振ると、山崎は愉快そうに笑った。
「まあ、場所が場所だし、なにかを譲歩して決めるしかないんじゃないのかな。場所がいいと家賃が高い。家賃が安い場所だと人が来にくい、っていうのはどこでも同じだからね」
炎天下のなか、物件探しは難航した。
あそこもだめ、ここもいまいち、そんな一日を過ごすことが多くなった。
ふと連れられた店舗から戻ってくる途中、杏子の住んでいたアパートの前を横切った。 二階を見ると、まだ誰かが新しく住んでいる様子はない。
英二は立ち止まってあの部屋にいた二年間を思った。
仕方ないわね、大学にはちゃんと行きなさいよと言う杏子の顔が思い出された。英二、いるの? ごはん作って。たまには実家に連絡しなさいよ。
どうしました? と聞かれて、英二はいえ、なんでもないですとこたえて歩き出した。
珍しく湿気のない日であったから、鼻の奥がひくつくような暑さを感じた。
黙って泊めてくれた杏子。いつも懐の深い杏子。もういなくなってしまった、彼女。
――君のことは、けっこう好きだったんだけどね。
文句を言う顔を思い出し、笑う様を思い出し、その裸を思い出した。
道端に咲くひまわりが、暑さに抗議するかのように佇んでいる。
みんみんと蝉が鳴くなかを、英二は歩いて行った。
「なかなか決まりませんね」
不動産屋は麦茶を出しながらため息をついた。職業柄で慣れているのだろうが、こんなに若い客は恐らく初めてであろう。
店舗探しをして、一か月が経っていた。候補は見つかるどころか、軒並み却下された。
「なるべく地階で、人通りがあって、それでいて家賃が安いとなるとどこか難ありの物件になってしまうんですよねえ」
扇子で仰ぎながら、パラパラとファイルをめくる手がふと止まった。
「ああ、ここなんかどうですか。実は売り物件なんですが、地下ですよ。ただねえ、ちょっと治安がねえ」
「場所が決まった?」
聞き返す山崎に、英二はうなづいた。
「今日契約してきました」
そしてその場所を言うと、
「あの辺りか。治安はまあまあだが、よくそんな好条件の店があったね」
貸しではなく売り物件、というのがひっかかって、長年買い手のつかなかった店舗だ。 狭すぎず広すぎない、一人でもやっていける広さである。難を言うなら、あまり治安のよろしくない場所であるということだけだ。あとは什器や照明、看板などを決めなくてはならない。
「それは私が手を貸そう」
そう言うと山崎は英二が必要としているものがある場所へ快く連れて行ってくれた。
グラスを揃え、ソファの色を決め、照明をセッティングして、衝立を買う。酒瓶が揃い、ドアの色を黒にして、看板を造る運びとなった。
「そういえば、店名は決めてあるのかい」
それについてはずっと考えていた。
名前になにか意味をもたせるのは好きではない。適当に辞書をめくって、響きがきれいなものを二、三選び、そのなかからさらに語呂のいいものを選んだ。ふと、杏子のことを考えた。店名も彼女と決めるかもしれなかったと思うと、苦いものでも噛んだ気持ちになった。
看板の文字は黒地に白抜きである。白と黒しか着ない英二らしい発案だ。
季節は秋になっていた。落ち葉がキャンパスを彩るなか卒論の発表会を終え、大学ももうじきに卒業だ。学生ではなくなる以上、下宿を出て行かなければならない。開店準備と共に部屋探しをした。なるべく安くて、狭くてもいいから店に近い場所。そちらは早くに決まった。訳ありの部屋など、どこにでもあるようだった。
「あとなにか必要なものってありますかね」
「そうだなあ」
山崎は顎に手をやった。
「食べ物を出すのなら、食品衛生責任者と防火管理者の資格はとっておいたほうがいいよ」
そこで遅ればせながら教科書を買ってきて勉強した。最短で半年、開店には間に合わないが、まあいいだろう。
<le ciel>が閉店して、開業前だというのに新しい店に山崎がやってくる。勉強しながら、英二は彼に水割りをつくった。
「山崎さんにはなにからなにまでしてもらって」
山崎は笑った。
「山さんでいいよ。堅苦しいのは好きじゃないんだ」
冬が終わり、英二は静かに新しい店を始めた。客は、山崎以外は誰一人として来ない。 空いた時間を資格のための勉強にあて、英二は春を待った。いよいよ卒業である。
なんの感慨もなく卒業式を済ませ、別れを惜しむ同級生たちを横目に見ながら、英二はひとりキャンパスを歩いた。ふと、桜の樹の下に誰かがいるのがみとめられた。
「よう」
遠藤だった。
「店やるんだって? いつか行かせてもらうよ」
「これからどうするつもりなんだ」
「なあに」
遠藤は肩をすくめた。
「俺もあの親の子ってこと。血には逆らえねえ。諦めて家業を継ぐよ」
そうか、と英二は歩き出した。
「新宿なら、おんなじ縄張りだな。その内俺んとこにも顔出してくれよ」
「やくざは嫌いだ」
「へっ」
振り返りもしない英二に、遠藤は言った。
「あんたには、借りができた。いつかその借りを返させてもらう」
「ご自由に」
遠藤は去っていくその背中を、いつまでも見つめていた。
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