やってきた男
2
梅雨が来た。
去年の今頃はなにをしてたかな、そんなことを思いながら、さつきは掃除を終えて買い出しに行った。
この時期は、季節の花でこれはと思うものがなかなかない。それでいつも、一年中あるバラや菊を選んでしまうのだ。バラはきれいだが、華やか過ぎてバーにはそぐわない。菊は地味すぎて共に活ける花を決めにくい。都会の地下にある<Chatoyancy>にいても客が季節を感じられるようにといつも苦心するのだが、どうもうまくいかない。が、今日は孔雀草とトウガラシがあった。赤に紫、黄色のトウガラシの実は白い孔雀草によく映えるだろう。
カウンターでは、英二がグラスを磨いている。戻りました、と言うと、低くそれにこたえた。花を水切りして流しに置き、買ってきた食材を冷蔵庫にしまう。今日の軽食は、なににしよう。さつきは冷蔵庫を見ながらその日の献立を考える。カレーにしたらにおいがお店に充満しちゃうかな。
そして水を満たした花瓶と古新聞、花を表に運ぶと、さつきは慎重に花の茎を鋏で切っていく。
今日は梅酒をつくる日でもある。英二は<Chatoyancy>を開業して以来、毎年夏になると青梅を買ってきて大きな瓶に梅酒をつくる。まず瓶を熱湯で煮沸して一晩乾かしておき、次の日に青梅と氷砂糖と焼酎を入れて厨房の隅の冷暗所に置く。さつきは梅酒をつくるのは<Chatoyancy>に来てから二回目である。
「母と暮らしていた時は母が梅干し作ってました」
「まめなお母さんだったんだね」
ふと、頭上で気配がした。
店の入り口のドアが開く音だ。誰かが入ってきたのだ。
入り口のドアには開店時間が書かれていないため、カフェかなにかと間違えてやってくる客は少なくない。そのたび、英二は開店時間はまだであることを告げる。二人は動きを止めて階段を降りてくる人影を待った。
一見紳士風のスーツを着た、壮年の男が降りてきた。
新宿にはいないタイプだ。珍しいな、こんな人がこんなところでなにをしているんだろう、そんなことをさつきは思った。
紳士は、階段を降り切ると感無量といった顔つきでさつきを見た。
「――」
なにかを思いつめているのか、なかなか言葉が出て来ないようである。
「?」
さつきは紳士の顔をじっと見た。知っている人だっただろうか。昔会った人だろうか。
しかし紳士の顔をどれだけよく見ても、記憶の底からなにかが甦ってくるというわけでもない。知らない男だ。英二はグラスを磨く手を止めて、さつきを凝視する紳士の横顔を見つめている。その表情に、変化は見られない。
「……君は」
紳士はやっとのことで口を開いた。
「如月さつき……かね」
さつきはなんと返事をしていいものか迷った。この男は自分を知っている。しかし、自分は彼を知らない。
「今は、橘さつきです」
仕方なしに、さつきはこうこたえた。紳士は一歩、さつきに近づくと、
「如月春代の娘かね」
春代は母の名前だ。さつきはますます混乱した。なぜ亡くなった母の名前を知っている? この男は、誰だ。
不審な思いは男に直に伝わった。男はもどかしそうに懐から一枚の写真を取り出した。 手渡されてそれを見ると、どう見ても若い頃の母であろう女と、小さい子供のものである。この子供に覚えはないが、これは間違いなく母だ。さつきは戸惑いがちに顔を上げた。
「春代は私の別れた妻だ」
男は言った。
「――」
「この子供は君だよ。君は私の娘だ」
父親――。
さつきは硬直した。英二も、目を見開いて男を見ている。
「小さい頃のことだったから覚えていないだろうが、これは君だ」
「……」
いきなりの訪問であった。さつきはどうすればいいのか、なにを言えばいいのかわからなくて、そこに立ち尽くしている。
「さつき」
英二がカウンターから声をかけた。さつきははっとして顔を上げ、英二がうなづくのを見ると、
「あ……えと、こちらにどうぞ」
と、ソファの席に父と名乗った男を誘った。座っても、さつきはもじもじとして落ち着きがない。
突然知らない男に父親だと名乗られた時、どうすればいいのか誰も教えてくれなかった。 そうこうする内、英二が冷やした麦茶をグラスに入れて持ってきてくれた。英二はカウンターに戻り、なにもなかったようにグラスを磨いている。
「探したよ。春代と別れてから君と春代が谷中に戻ったことは知っていたが、なにせ二十年以上も前のことだからね。人を雇ってあちこち捜索した」
「……」
どうしよう、なにから言おう、どう言おう――さつきはまだ言いあぐねて、顔を上げられないでいる。そんなさつきを見て、父は一人で話し始めた。
「若い頃事業に失敗してね。大変な借金を背負ってしまったんだ。君が生まれてすぐのことだ。だから春代は足手まといにならないように、と私と離婚したんだ。養育費も払えなくて、すまないことをしたと思っている」
父は側に座るさつきの手を握った。
「苦労させてしまったね」
「――それは……いいんです」
さつきはやっとのことで口を開いた。
「でもなんで急にここに来たんですか?」
「再婚して、事業が軌道に乗っただけでなく借金も返せてね。今なら会いに行けると思ったんだ」
父は店内を見回して言った。
「こんな場末の飲み屋で働かせて、申し訳ないと思っているよ」
「……いえ、好きで働いてますから」
「姓が変わったということは、結婚したんだね」
はい、とさつきが小さく言うと、父は相手はどんな男かねと聞いた。さつきは黙ってカウンターの方を見た。
英二が、相変わらず無表情でグラスを磨き続けている。さつきは黙って彼を指差した。「そうか。結婚してしまったのか」
落胆を含んだその言葉には、微かな棘があった。
どういう意味だろう――さつきはまだ混乱する頭のなかで必死に考えていた。
「まあいい。休みの日はいつだね? 私と食事に行こう」
「あ、え、困ります」
さつきは慌てて言った。
「お休みの日はやることがあるので」
なぜかそんな嘘をついていた。
「そうか。では次の空いている休みにしよう。彼も一緒に」
父は立ち上がった。
「私は当分東京にいる。気が向いたら会いに来てくれ」
そう言って滞在しているホテルの名を告げると、父はまだなにか言いたげなさつきを置いて、さっさと行ってしまった。
「……」
さつきは呆気にとられて階段を昇っていく父を見つめていた。
「感動の再会だったね」
英二が煙草に火をつける。さつきは父の突然の訪問を詫びた。
まだ混乱していた。
死んだ母は、父のことをいっさい話さなかった。死別ではないことはわかっていたが、母がなにも言わないので、さつきも聞かないようにしていた。父親はどんな人なんだろう、そう思ったことは二度三度ある。しかし成長するにつれ、父は自分の人生にはいないものなのだとわかりはじめて、さつきはいつしか父親のことを考えることをやめた。自分の一生には、必要のない人だったのだと思うことにしていた。
その父が突然現われた。
さつきが困惑するのも当然であっただろう。渡された手のなかの名刺を、さつきはじっと見下ろした。
工藤将一、とある。工藤。私、工藤さつきだったんだ。
タマが厨房で鳴いている。その声にはっとしてさつきは厨房に行き、少しして戻ってくると、花を切って活け始めた。英二はなにも言わず、淡々と時間を過ごした。
さつきはこの日気もそぞろで、気が散ることが多かったようである。
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