本分とは

 時刻表通り七分後にやって来た電車に揺られる事、四分。電車は次の駅へと辿り着いた。

 都会の電車とは違い、田舎の電車には押しボタン式もある。この電車はそれに該当する。この駅で降りる乗客が『開』ボタンを押したようで、近くのドアが音を立てながらゆっくりと開いた。伴って、結構な人数が降りていく。

 井上もここで降りるようだ。ソフィアと交わしていた世間話を切り上げると、手を振りながらドアの方へと向かっていった。


「ソフィアさん、じゃあねっー!七宮くんも!」


 俺はどうした、とは勿論、圭太郎は言わない。

 素知らぬ顔で立ったまま、毒にも薬にもならない背景を演じる。


「あ、そうだ!ソフィアさんっ!」


 何か忘れ物でもあったのだろうか、電車から降りてホームへ降り立ったかと思えば、また井上は車内へと戻ってきて、足早にソフィアの元へと駆け寄っていく。


「気をつけてねっ!ソフィアさんはとっても可愛いんだから、変な男に絡まれるかもしれないよ!特にそこの奴とかには気を付けてねっ!」


 そこの奴って誰の事だ、とも圭太郎は言わない。

 ギラついた獰猛な視線が向かっている先、そこにいる奴は、他でもない人物だからだ。

 つまりは、俺の事である。

 それを理解してもなお圭太郎は素知らぬ顔のまま、しらっと視線を外すのみ。


「じゃあ、また明日ねっ!グッバイ!」


 ソフィアへの注意喚起を済ませると、井上はまた足早に電車から降りていって、両手を盛大に振りながら、階段の方へと去っていった。

 井上の姿が完全に見えなくなってから圭太郎は小さく溜め息を吐き、開いたままのドアへと近寄ると、赤色に輝いている『閉』ボタンを押した。

 プシューと閉まっていくドア。これで井上と共有していた空間は断絶された。ふっと気分が軽くなる。

 圭太郎は安堵の息を漏らした。


「圭太郎ってば、思ってたより断然、井上さんに嫌われちゃってるね」


 と、すぐ横で言ったのは椿。

 圭太郎はポケットに両手を突っ込んで、鼻を鳴らした。

 

「構うもんかよ。もう関わる機会なんてのは、ろくに無いだろうからな」


 AクラスとDクラス。

 合同授業の組み合わせはAとB、CとDとなっているので、幾ら嫌われたとしても、特段問題は無い。

 中等部の頃ならクラス替えのシーズンに多少の緊張を覚えたかも分からないが、高等部であれば話は変わってくる。井上が極度の成績不振にでも陥ってCクラス以下に落ちぶれない限りは、直接的な関わりの場など滅多に来ないからだ。

 それが分かっているからこその、この圭太郎の悠然たる余裕。


「それにしても見事だよ、圭太郎」

「何が?」


 突拍子もない椿の発言に、圭太郎は首を捻る。

 見事と呼ばれるような何かを成し遂げた覚えはまるで無い。

 椿が腕を組んでうんうんと頷きながら、その疑問にしっかりと答えてくれた。


「井上さんは誰とでも仲良くなれる人だからね。いつもクラスの中心にいて、ムードメーカーという言葉がピッタリな人なんだよ。そんな太陽みたいな井上さんに、あんなに敵意を剥き出しにされるなんて……圭太郎は凄いよ」

「褒めてるのか貶してるのか、どっちだそれは」


 次なる疑問には考える素振りすら見せずに、椿は即座にこう答えた。


「どっちもかな」


 そうか、どっちもか。その比重は聞かないでおこう。

 それにしても、はあ、面倒だ。「ねえ皆、今日から綾坂を無視しよー」とか言われたら、全校とは言わずとも同学年の大半から総スカンを食らいかねない。

 Aクラスの中心。名実共に一軍の女子の親玉に嫌われるのは、もしかしなくても芳しくないのかもしれない。

 まあ、いないもの扱いには慣れているので、今更気にするような事でも無いのだが。それに既に空気のような存在であるし。井上が仮にシカトを命じたとしても「分かった!で、綾坂って……誰だっけ?」となるに違いない。

 圭太郎はフッと笑った。


「ま、いいさ。学校なんてのは昼寝して、飯食って、下校時間になったら帰る、それだけの場所だからな。たまたま同じ場所に通ってるだけの他人との関係に頭を悩ませるなんて、実に馬鹿馬鹿しい」


 圭太郎にとって学校とはさして重要なものではない。高校で学ぶべき範囲など、とうの昔に済ませてある。

 それこそ総スカンを食らっていた小学六年生の頃には、いずれはここに入るんだろうなと何となしに考えていたイギリスの某有名大学の論文を原文のままで、小説の代わりに読んでいたぐらいだ。分からない単語などは少々あったが、理論や内容自体はその当時でも大体は理解出来ていた。

 そんな圭太郎が学ぶ事など、高校という場では何一つも無い。

 そして、知っての通り、友達を作ろうなんて気もさらさら無い。だからこそ、そんな世迷い言よまいごともきっぱりと言い切れてしまう。

 

「圭太郎、嘘でも勉強は入れておこうよ。一応、それが学生の本分なんだから」

 

 もっとも、その方が圭太郎らしいけどね、と最後に付け足してから、椿はおどけたように肩をすくめた。

 学生の本分、か。

 圭太郎は、いやに唇の端を吊り上げた。自分の専門分野を他者に雄弁に語る時のような、得意げな笑みを浮かべる。

 

「椿、学生以前に人間の本分を考えろ。人間の本分……それはな、睡眠なんだよ。睡眠は一日のおよそ三分の一を占める。つまり人生の三分の一は睡眠って事だ。睡眠こそが俺達の人生なんだ。俺はな、一人の人間として、この星で生きる動物として、真っ当でいたいんだよ」


 勝利。それだけを圭太郎は確信していた。

 屁理屈だろうと、理屈は理屈。所詮学生の本分とは、人間が後から編み出したもの。しかし人間の本分とは、母なる自然が生み出したものだ。

 どちらが正しい本分なのかはそう、あまりにも明白。

 圭太郎が持論をツラツラと語っている間、椿は大人しく黙って聞いていた。

 圭太郎の話が終わると、しばしの間を置いて、椿は頷いた。

 

「なるほどね。ならそれに加えて、子孫の繁栄も頑張らないとね」


 事もなげに、どこまでも自然に、椿が飄々ひょうひょうと口走ったのは、とんでもない暴論。

 公共の場で何を言ってるんだ、こいつは。男子高校生だけの空間ならまだしも、近くには他の乗客とソフィアだっているんだぞ。

 ズキズキと痛むこめかみに指をあてがいながら、圭太郎は椿を睨む。

 

「それはまた別の話だろ。そもそもまだ高校生だぞ。そっちの本分を果たすには、まだまだ早いっての」


 否定自体はしない。これを否定すれば、先ほど自分が偉そうに述べた生物としての何とやらの、その言葉の説得力がまるで無くなってしまうからだ。

 いやでも、やっぱり否定すれば良かったな。選択を間違えた。

 椿が笑みを深める。先ほどの圭太郎のような得意げな笑みを、深める。

 

「どうしてさ?人が生まれてくる意味なんて、言っちゃえば自分の遺伝子を次の代へと繋ぐためだよ。それに高校生以前に、十六歳の人間なんだよ。昔だったら今のボクらの年齢でも、普通に子どもを作ってたよね。圭太郎が生物としての本分を語るなら、むしろこれこそが今から最優先で圭太郎がなすべき事だとボクは思うけどね」


 こんの、人の理屈の揚げ足を取りやがって……。いや、簡単に揚げ足を取られるから、屁理屈か。

 圭太郎は考える。さて、ここはどうしたものかと。

 顔を真っ赤にして「それは違うだろ!」と息を荒げて言うのは、それこそ違うだろう。かと言って何か長々と理屈をつけて返すのも、それはそれで間違いだ。特にこの電車という密閉された空間においては。

 だってどう考えても、このトークテーマは公共秩序に反する。

 こんな話題、早々に打ち切るのが最善だ。そうなると真偽はどうあれ、ここは同意しておいた方が良いだろう。それが手っ取り早く話を終わらせる方法だ。

 ここで議論をするのは、馬鹿のやる事である。

 それに、だ。素直に認めてやった方が、椿は拍子抜けするに違いない。え、ああうん、やっぱりそうだよね、と。

 という訳で圭太郎は、その意見に同意する事とした。

 

「そうだな。けどよ、まだ残念ながら相手がいないんだ。こればっかりはどうにもならんぜ。だからだな、今は睡眠に一所懸命にならざるを得ないって訳だ」


 と、やれやれと言った圭太郎のすぐ傍で、この話題になってからずっと落ち着かない様子でソワソワしていたソフィアは、

 

「……………」


 圭太郎のその回答に、いたく不服そうであった。俯いて無言でただその場に立っているだけなのだが、とてつもないプレッシャーを感じる。

 残念ながら、それを気付くべきである当事者本人は、全くもってその事に気付いていないのだが。


 それにしても本当に、圭太郎が色恋沙汰に疎く、そして理性の強い人間で良かった。そうでなかったなら、既にとっくにエピローグを迎えていた事だろう。

 再会した初日の夜で、全て話は終わっていた。

 どういうエピローグかと言えば、


『ふう、ただいま』

『お帰りなさい。お疲れ様です、圭太郎』

『パパお帰り〜っ!!』


 とか、そういう類のだ。

 そういう微笑ましい、幸せな家族の、日常の一ページ。

 プロローグが終わったかと思ったら、そういう風なエピローグを迎えるところだった。

 物語として、終わってしまっていた。無論ソフィアとしては、そっちの方が良かったのだろうが。


「はあ……圭太郎って、本当に圭太郎だよね」


 椿が呆れた顔で、処置なしと首を振った。

 

「言ってる意味は分からないが、馬鹿にされてるのぐらいは分かるからな」

「だって馬鹿だもん」


 椿にそう返され、圭太郎はやけに楽しそうに笑った。

 

「ああ、知ってる」

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