空いてても電車は座らないのがモットー

(ああ……胃が痛い……)


 ガタンゴトンと忙しなく揺れる電車の中で、とてつもない居心地の悪さを圭太郎はひしひしと感じ続けていた。先ほどからずっと、胃がギリリと強烈な悲鳴を上げている。

 何故に現在の圭太郎がこんなにも精神を蝕まれているのかと言うと、その理由は隣にあった。すぐ真隣で寄り添うように立っている、ソフィアにあった。


(何あれ?本当に同じ人間?)

(へえ、天使って実在するんだな)

(あんな子を彼女に……。いや、あんな子と一回は話してみたい人生だった……)

(あの制服……頭も良いんだー……)


 ありとあらゆる方向からチラチラとソフィアに対して向けられている視線のその全てが、興味関心の範疇を超えて、畏敬の念にまで昇華されてしまっているように見える。

 しかし、それも仕方がない話だろう。

 なんせ県内ナンバーワンの学校の制服を着た、世界トップレベルの美少女なのだ。なおかつ金髪碧眼で雪のように白い肌は、黒髪ばかりの電車内ではより際立ち、目立つ。

 多少の神格化はやむなしなのかもしれない。


(そうだよな、こうなるよな。こうなるのは目に見えてたよな。前みたいに帽子ぐらいは被ってくれば良かった。やれ何が仕方ないだ、やれ何がボディガードだ。単に考える事を放棄して、投げやりになってただけだろうが。せめて私服は押し通せよな、こんの馬鹿野郎め)


 ポジティブシンキングと言う名の思考放棄に逃げ込んだ今朝の己に対して、圭太郎は呆れる事しか出来ない。ついつい深い溜め息を吐いてしまう。

 線路の上を駆ける音や周囲の雑談の声、色々な音が重なり合う騒々しい電車内でも、その吐息を聞き漏らさなかった者が一人だけいた。

 勿論その一人とは、ソフィアの事である。


「どうかしましたか?」


 ソフィアは圭太郎をじっと見上げた。

 自分へと急に向けられる、可視化された関心。圭太郎は一瞬たじろぐも、これ以上問題を先送りにするのをよしとはせず、男らしく腹をくくる。


「なあ、少しばかり距離を置くってのはどうだ?」


 見つめ返し、言った。

 途端にソフィアの顔には暗く濃い影が射し、不安で仕方ないといった表情に変わっていく。


「……私の事……き、嫌いになっちゃいましたか……?」

「違う違うマジで違う」


 圭太郎は慌てて首を横に振った。振り尽くした。首の骨が折れるかと思った。


「そうじゃなくて、そんな訳なくて」


 そんな風にしっかりと、念入りな否定。

 ソフィアを嫌いになる訳がないし、なる予定も一切ない。そんなカレンダーは飾っていない。

 しかし、ここで引き下がってもいけない。平穏な人生を歩むためには、歯を食い縛って心を鬼にしなくてはならない時もあるのだ。


「ほら、極力交流を控える方針って前に決めたろ?」


 圭太郎がすっと人差し指を立て、初日の夕食時に交わした決め事を蒸し返すと、ソフィアはこくりと頷いた。

 そして、


「はい、では、でしたよね?」


 と、その内容を再確認。少しばかり語気を強めた、二の句を継がせる気のない口振りで、こてんと首を傾げている。

 圭太郎が固めた決意は一瞬で打ち砕かれてしまった。


「はい、そうですね、そうですよね、そうでしたよね」

「はい、そうなんです」


 ソフィアが頷いて、ここでゲームセット。悲しいかな、圭太郎の完封負けである。それも完全試合で。


 はあ、駄目だった。これでは学校までこの近すぎる距離感を保ったままで向かう事になってしまう。それでは校内で交流を控えたって、何の意味も無いじゃないか。頭隠して尻隠さずじゃないか。

 ぐるりと電車内を隅から隅まで、圭太郎はくまなく見渡す。


(幸いにも今は車内に他の叡峰の生徒はいない。が、次の次は南妻本。そこらでガガッと乗ってくる。そこがまさしく人生のタイムリミット。俺の平穏なる高校生活は無事崩壊、となる訳だ)


 冷静に現状を分析し、訪れる未来を予測する。残酷な未来を。

 圭太郎が思考に耽っている間にも電車は次の駅へと着々と進んでいて、既にホームは近い。タイムリミットはもうすぐそこだ。


(もう駄目だ、おしまいだ。時間が無い。ああ……帰りたい、今すぐに帰りたい。いっその事ここで降りたい。俺はもうここいらで帰らせて貰うぞって叫んで、帰りたい。あ、それは完全に死亡フラグだな)


 そんな事を考えているうちに、段々と緩まっていくスピード。完全なる静止を迎える手前で、ぐらっと一際盛大に、電車が揺れ動く。


「きゃっ!」

「!」


 隣のソフィアがバランスを崩すのが見えた。圭太郎は咄嗟に腕を伸ばし、そんなソフィアをぐいっと引き寄せ、助け出す。


「っと、大丈夫か?」

「……だ、大丈夫ですっ……」

「ふぅ、なら良かった」


 ほっと一安心。額の汗を拭う。ソフィアが無事ならそれで何より。


「大丈夫です……けど」

「けど?」


 圭太郎は眉をひそめる。もしや足でも挫いたのかもしれないと、心配になった。


「大丈夫じゃない、かもです……」

「…………あ」


 やっと気づいた。今どんな体勢であるのかを。腕の中にすっぽりと収まっているソフィアを見て、そこでやっと気がついた。


(うわー……すごーい……)

(人生は不条理だ、不平等だ……。勉強に青春を捧げたのに叡峰に落ちた俺がいて、叡峰生のくせに公共の場で馬鹿みたいに青春してるやつがいて……ああ、くそが!)


 先ほどまでのものから何段もグレードアップしている、好奇の目。チラチラからジロジロに変わっていて、もはや見ているのを隠そうともしていない。これでは凝視だ。単なるガン見だ。

 しかし、それも致し方ない事だろう。

 なんせ電車内で思いっきりハグをしているのだ。熱く熱く抱き締めているのだ。見方によってはバカップルである。よらなくても、か。


「わわわ、悪いっ!」


 現状を把握した瞬間に、圭太郎はばばっ!と両腕を広げて、ソフィアを即座に解放した。

 顔が熱い。鏡を見ずとも、今の自分がトマトみたいな顔色をしているのが良く分かる。やらかした。


「咄嗟だったんだ、本当にこれっぽっちも、そういうつもりじゃなくて」

「わ、分かってます……。それに全然これっぽっちも嫌じゃないですし……むしろその、もっと……もっと……」


 同じく顔を火照らせたソフィアが、はふ、と口元を手で覆い隠しながら、そろりと圭太郎を見上げたところで、


「やあ、おはよう、圭太郎。それとソフィアさんも」


 と、真横から突然現れる乱入者。あれ、前にも似たような事があったような。


「うおっ!?」

「ひあっ!?」


 ビクッ!と二人同時にその場で体を跳ねさせる。口から心臓が飛び出そうになった。それどころが胃と腸まで出てきそうだった。危うくポックリと逝きかけた。

 圭太郎が声の主へと視線を向けると、そこにはとても見知った奴が立っていた。


「……んだよ、椿か」

「お、おはようございます……っ」


 安堵の表情を浮かべる圭太郎の横で、ソフィアがぺこりと頭を下げる。


「いやー朝から凄いね。ここ電車だよ?やれやれ、ボクの知らぬ間に一体どんなイベントを二人はこなしてきたのか、もう気になって仕方が無いよ」


 椿はいやに口の端を吊り上げていた。それはそれは楽しそうで、例えるなら遊びがいのある玩具を見つけた時のような顔をしている。


「いや、今のはソフィアが転びそうになったから、受け止めただけであってだなっ」


 圭太郎はすぐに自身の弁護を開始。

 こんな片田舎の電車で、人目も憚らずに女に抱きつくような輩だと認識されては堪らない。ほぼ毎朝乗るのだ。椿よりも他の乗客に聞かせる狙いで、若干大きめの声量で無罪を主張する。


「いいよいいよ、言い訳なんてしなくたって。ボクも分かってるからね。で、式をいつ挙げるのかはもう決まったの?」

「おいこら」

「あはは、冗談だってば」


 この腹黒糸目が、他人事だと思って呑気に笑いやがって。

 ぎろりと椿を睨み付けるが、その攻撃が効果を発揮する事はない。どこ吹く風だ。

 すると唐突に、


「それにしても珍しいね。圭太郎が制服を着てくるだなんて。一体どういう風の吹き回し?」


 椿は話題を変えてくる。

 何か鑑定でもしているのかと言いたくなるほどに、まじまじと全身を見られる。虫眼鏡でも持っていたら完全に専門家だ。何のかは知らないが。


「おあいにくさまで、俺も全くお前と同じ気持ちだよ」


 圭太郎は無愛想にそう言ってやった。

 その直後、


「でも、とってもとっても似合ってますっ!」


 と、ソフィアがブンブンと拳を揺らしながら、詰め寄りながら、圭太郎を褒めちぎる。その瞳には強い意志が宿っていて、気迫が凄い。


「……そ、そうか、ありがとな」


 思わず圭太郎は後ろに下がりそうになる。いな、下がっていた。不意に肩らへんに硬いのが当たった。電車のドアだ。


「うん。それに関してはボクもソフィアさんと同感かな」


 と、椿がすかさず追い討ちをかける。


「ったく……俺なんかをそんなにおだててどうする気だ?木にでも登らせる気か?」


 がしがしと頭を掻きながら、圭太郎は椿を半目で眺めた。まさしく疑心暗鬼の目である。


「やれやれ、心からの本音なのに。ねぇ、ソフィアさん」

「そうです、圭太郎はカッコ良いんです」


 身に余る高評価がむず痒い。マゾヒストという訳では無いが、圭太郎としては貶される方が断然楽なのだ。


「はぁ…………照れるからやめてくれ。俺が調子に乗っても知らないぞ」


 長い長い溜め息を吐いてから、圭太郎はドアへと凭れかかる。そして目を閉じ、腕を組む。


「ボクは是非とも見たいけどね。調子に乗ってる圭太郎を」

「勘弁してくれ」


 ひんやり冷たいドア上部に後頭部をごつんとぶつけ直すと、短い溜め息が勝手に口から零れ落ちてきた。

 この電車が、荷馬車に思えた。まるで出荷でもされているかのような心持ちで、圭太郎は目的地へと運ばれていく。

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