朝の八時は早すぎる

 翌朝。

 

 バタバタと忙しない足音が、朝の家に響き渡る。人が階段を駆け上がる音だ。

 次いでガチャ、という音もした。これは扉を開く音である。階段を駆け上がっている時の慌ただしい音と比べると、随分と此方は落ち着きがあった。


「圭太郎、朝ですよ。起きてください」


 そう言いながら部屋の中に入って来たのは、左手にフライパン、右手にお玉、上半身にはエプロンという、古典的な装備に身を包んだソフィアだった。

 食パン咥えた女子高生ぐらいには、ド定番の姿である。


 しかしそのお約束を如実に表す、ガンガンガン!といった感じの鼓膜をつんざく轟音は、一向に鳴らす気配が無い。

 ただ何かしっくりとくるからその二つを持っているだけであって、圭太郎を乱暴に強引に起こす気は無いらしい。

 ゆるりと開いた扉の音と、穏やかな声からしても、それは明らかであった。


「……んん……」


 険しく眉を寄せた圭太郎が毛布を頭まで被り直すと、ソフィアに背中を向ける形で寝返りを打つ。起きる気配など皆無である。

 

 だが、それも当然だろう。

 現在の時刻は八時の手前、休日の圭太郎が起きている筈のない時間帯。意識の覚醒までを求めるのならば、後五分では無くてもう五時間ぐらいは、圭太郎としては待っていて欲しい。


「朝ご飯が出来ましたよ。早く起きないと冷めちゃいますよ」


 手に持った調理器具をテーブルの上に置くと、ソフィアはそんな圭太郎の元へと駆け寄っていく。

 我関せずといった態度で、ぐうぐうと眠り続ける圭太郎の体をそっと揺らして、どこまでも優しく起こそうとしている。


「……んぐ……ん……」


 当然ながらそのような甘っちょろい起こし方では、圭太郎の目を覚まさせられる訳も無く、深い深い眠りについたままだ。

 しかし、そうやって能天気に眠り続けている圭太郎に対してもソフィアが怒る事は無いし、怒る筈も無い。

 

「もうっ、圭太郎はお寝坊さんですね。そんな圭太郎も好きですけど……」


 不服そうに唇を尖らせて、頬をぷくりと膨らませてはいるものの、どこかウットリとした表情をソフィアはしている。それは抑えきれない愛が溢れ出してしまっている時にのみ現れる類の表情だった。


「圭太郎、ほらほら早く起きないと……」

 

 やがて、おもむろにソフィアが姿勢を低くして、圭太郎の耳元へと唇を寄せていったかと思えば、

 

「……KISS……しちゃいますよ……?」


 と、ボソッと吐息混じりに、そう囁いた。何故かキスという単語が、ネイティブ仕様の発音になっている。

 自分で言っておいて恥ずかしくなったのか、ソフィアの顔はみるみるうちに赤く染まった。

 圭太郎からの応答を無言で待つ。

 

「……ぐう……」


 無論、圭太郎は目を覚まさない。

 覚ます気配すら、やはり無い。

 

「ほ、本当に本当に……私しちゃいますよ……?」


 そんな事を言いながら、ソフィアは圭太郎の頬を人差し指で、つんつんと何回もつつく。どうやら、圭太郎が起きないかどうかを念入りに確認しているらしい。他に誰もいる筈が無いのに、キョロキョロとご丁寧に部屋の隅々まで見渡している。

 念入りな確認が終わったら、お次は言うまでも無いだろう。徐々にソフィアが圭太郎に顔を近付けていって……。


『ピリリリリリ!』


 と、その途中でけたたましい電子音が、部屋の中に鳴り響いた。

 その音の発信源は枕元に置いてあるスマホで、それは圭太郎が昨晩設定したアラームの音だった。


「……ひあっ……?!」

 

 ソフィアが悲鳴一歩手前の素っ頓狂な声を上げながらビクッと跳ねて、突然の事に、思わず体が硬直までしてしまう。


「んぐ……うるさ……も、少し……」

「ぁっ圭太郎……」


 己の安眠の邪魔をする憎き敵を討ち滅ぼそうと、素早く伸ばされた圭太郎の腕が、そんな無防備なソフィアをガッチリと捕まえて、瞬く間に布団の中へと引き摺り込んだ。

 

「んぐ……も、あと……五時間……」


 スマホを捕らえる事自体には失敗したために、依然として鳴り響き続けるアラーム。

 その音から逃れようと圭太郎は、代わりに捕獲したソフィアの豊満な谷間に、自身の顔を埋めていく。

 まさに最上級で、最高級で、世界一贅沢な、防音対策であった。ついでに枕の代わりにもなっている。

 寝心地はとても良いようで、眉間に刻まれていたしわはすっかりと消え失せていた。

 

「んん……圭太郎、それは流石に長すぎですよ……」

「……すぅ、すぅ……」


 ソフィアは口ではそうは言っているが、満更でもない様子だ。むしろこの状況に喜んでいるようにしか見えない。

 圭太郎を起こしてしまわないように喧しいアラームをきっちりと確実に止めていくと、自身の胸の中で健やかに眠りこけるその頭を撫でた。

 

「でも三十分ぐらいなら……良いですよね」

「……ぐぅ……すぅ、すぅ……」

「圭太郎の匂い……落ち着きます……」


 ソフィアはこの心地のよい時間をより長引かせる方を迷いなく選んでいくと、圭太郎を包み込むように抱き締めていく。

 

「ん……ソフィ……ア……」

「もしかして、私の夢を……見てくれているんですか……?」


 安らかな顔で眠っている圭太郎が、ソフィアの名をぼそりと呟いた。どうやらソフィア関連の夢でも見ているらしい。

 

「……お前だけは……俺が……守るから……」

「……幸せすぎます…………」


 安眠中の圭太郎が溢した嘘偽りの無い本心。ソフィアは自分の顔が、今とんでもないぐらいに緩んでいっているのがハッキリと分かった。心がぽかぽかと温かい。

 ゆっくりとソフィアは目を閉じる。視界を塞げば、何かもがあの頃と一緒だった。不安も何も無く、圭太郎の隣で眠っていたあの頃と。とても落ち着く。


「……圭太郎、……すぅ……」


 そこから一分も経たないうちに、ソフィアも圭太郎と同様に、安らかな眠りへと落ちた。

 のどかで整った二人の寝息だけが、物静かな朝の室内に響き渡り続けていた。

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