ありがとう

 圭太郎が風呂から上がると、ソフィアはまだリビングにいた。ソファにちょこんと座っている。

 風呂上がり、茹で上がったタコのようになっている圭太郎の顔を見た途端、ソフィアは不安そうな表情を浮かべた。


「圭太郎、大丈夫ですか?顔が真っ赤ですよ」

「ああ、大丈夫。ちょっとばかり湯あたりしそうになっただけだ」


 圭太郎は自身の火照った顔を手で扇ぎつつ、心配するような事はないと伝える。これはただ単に悶々としていただけだ。

 勝手に変な想像をして、勝手に頭に血を上らせたに過ぎない。気を遣われた方が情けなくて、とても恥ずかしくなる。

 

「そ、それならいいですけど…………あ、もしかして私の後のお風呂だったので、意識しちゃいましたか?」


 にひ、という感じの少しばかり悪どい笑みを浮かべ、ソフィアがそんな事を言った。

 その表情を見る限りきっと冗談のつもりで言ったのだろうが、圭太郎はギクッとなった。大正解もいいとこだった。的の中心に矢が当たってしまった。

 圭太郎はすぅーと視線を横にスライドして、

 

「……だったとしたら、どうするんだ?」


 と、否定する訳でもなく、逆にソフィアに聞き返してみる。これはある種の意趣返しであり、危惧すべき問題の提起でもあった。

 自分も一介の男子であるという事をやはりしっかりと、ソフィアには知っておいて貰う必要がある。子どもの頃とは違い、適度な距離感というものが不可欠なのだ。

 再確認した、荒療治は必要だと。ソフィアは無防備すぎる。自分だけならまだしも他の男にも同じようにこんな感じで接していたら、危険な目に遭いかねない。というか確実に遭う。

 そんなのは圭太郎にとって、到底許せる事では無かった。

 

「………あ、え、えっと……っ……はぅ……その、……あの、……」


 予想外の返答だったのだろう、直ちにソフィアが俯いたかと思えば、既に耳まで真っ赤に染めている。もじもじと恥じらうように指を動かし、圭太郎の方を時折覗いて、何かを訴えかけている。

 その姿を見ていると、妙な罪悪感が湧いてきた。先に辱めを受けたのは自分の筈なのに……、圭太郎は世の不条理を嘆く。

 

「自分から聞いといて恥ずかしがるなよ……」


 文句の一つも言いたくなったが、圭太郎はその気持ちをグッと堪えて、微かにそうぼやく程度にとどめた。

 

「明日からは俺が先に入るよ。その方が、良いと思う」

「そ、そう、ですね……!確かにその方が良いですね……!」


 シリアスな表情で放たれる圭太郎の言葉に、ソフィアが大袈裟に頷きながら同意した。

 

「ああ、俺の命のためにで頼む」


 圭太郎はソフィアの隣にどさっと腰を下ろし、本気のトーンでそう言う。

 かなり強調していた。懇願というのが正しいのかもしれない。

 

「そ、そこまでの死活問題なんですか……?あ、圭太郎。もしかしてですけど……飲んじゃいましたか?」


 顔色をほんのり赤いぐらいにまで落ち着かせたソフィアは、喉元を過ぎたら熱さなんて忘れてしまったようで、全く学習していない。辱められたがっているようにしか、圭太郎には思えなかった。

 そうだよ!飲んだよ!美味しかったなぁ!とでも言ってやろうかこんにゃろう、なんて考えつつ、圭太郎はソフィアの額を人差し指でビシッと強めに弾いた。


「あう……痛いです、圭太郎……っ」

 

 額を両手で押さえて涙目になっているソフィアを睨むように、圭太郎は見つめると、

 

「飲むか。人を何だと思ってやがる。仮に飲んでたとしてだぞ?そんなド変態と一つ屋根の下でお前は安心して暮らせるのか?」


 と、至極真っ当な意見をぶつけた。

 因みに本当に、本当に、飲んでなどいない。全く脳裏を掠めなかったのかと言われたら……それはまあ、嘘になるのだが。

 するとソフィアは、

 

「無論、圭太郎以外だったら極刑です!ハラキリ打首獄門パラダイスです!でもでも圭太郎だったら情状酌量の余地があります!自白したら何と更に罪は軽くなります!破格の待遇なのです!」


 なんて、外国人が使わなそうな単語ランキングの上位に載ってそうな物騒な語彙を交えて、ハキハキとそう宣言した。

 それパラダイスじゃなくてヘルじゃねーかよ、と圭太郎は思ったが、口に出すのはやめておいた。市中引き回しが無いだけマシか、とも思った。

 

「随分と難しい日本語を知ってるなお前」

「えっへん!私とってもとっても頑張りましたから!褒めて遣わしますよ!」

「それは褒める側の口上な。よしよし偉い偉い。ソフィア凄いぞ」


 撫でろと言わんばかりにずいっと頭頂部を向けてくるソフィアを、圭太郎はこれでもかと撫で回す。よーしよしよし、よーしよし、と。

 二転三転、立場逆転。まさに俺のターンである。

 別にここでソフィアを甘やかしたからと言って、さっきのがプラマイゼロになる訳では当然無いのだが、圭太郎はここぞとばかりに攻勢をかけた。


「えへへ…………圭太郎とまた会うために、たくさんたくさん頑張ってきたんです……!」


 ソフィアのトラップカード発動。

 向日葵ひまわりのような笑顔に、言われた方はとても嬉しい健気な台詞。

 圭太郎にダイレクトアタック。


(ヤバい可愛い……って、今は違うだろうが馬鹿!まずちゃんと礼を言わないと、だろ!)


 ほうけそうになっていた自身の頬をピシャリと叩いて己を一喝、圭太郎は気を取り直すと、本題を切り出す事に決めた。

 

「…………あのさ、ソフィア。さっきはありがとう。本当に助かった」


 撫でる手を止めて、両手を膝についたら、圭太郎は深く深く頭を下げていく。感謝してもしきれなかった。

 ソフィアがいなければ、朝まで自罰の迷宮から抜け出せなかったのは間違いない。過去を思い返している時、自分はいつもそうなる。

 

「ふふ、別にいいですよ。圭太郎の助けになれたのなら、私はそれだけで嬉しいんですから」


 ソフィアは優しく穏やかに、そして本当に嬉しそうに、圭太郎へと優しく微笑みかけた。

 やはり聖母なのかもしれない。

 

「…………聞かなくていいのか?その、さっき俺がガキみたいに泣いてた理由、とか……」


 十六歳の男子高校生が人目もはばからずにエグエグと泣いていたのだ。流石にその理由ぐらいは気になっているだろうと、圭太郎はソフィアに尋ねる。

 涙が止まるまで付き合わせたのだから、圭太郎に守秘義務は無い。自身の過去を率先して打ち明けようとは勿論思わないし、恥部を晒すのと同じなので嫌で嫌で仕方はないが、それはそれでこれはこれだ。ソフィアには聞く権利がある。


「圭太郎が話したいのなら私はいつでも聞きますよ。でも話したくないのなら、何も話さなくていいです。私からは何も聞きません」


 ソフィアが毅然とした態度で、キッパリと言い退けた。そこには信念があって、圭太郎は己を恥じた。

 ソフィアが人の隠したい過去を率先して聞こうとする無神経な人間の筈が無かった。見誤るのにもほどがある。

 

「……そっか」

「はい、そうなんです」


 ソフィアが頷いて、しばしの無言。

 

「…………じゃあさ、絶対に言いたくなる時が来ると思うから、その時は俺の隣で聞いててくれよ」


 幾許いくばくかの静寂を切り裂いた圭太郎のその言葉は、どこかスッキリとしていた。それは声色なのか喋り方なのか、それとも年相応に崩れた、純粋な表情のせいなのか。

 一生誰にも教える事はないと考えていた自分の過去。それを打ち明ける時がいつか必ず来るという確証が、今の圭太郎にはあった。

 

「勿論です。私で良ければ喜んで聞かせて貰いますよ。耳をかっぽじって聞いてあげますから」

「いいよ、そんな真面目に聞かなくて。何も楽しい話じゃないし、ちょっと閉じて聞くぐらいで頼む」

「無理です。私の耳は圭太郎の言葉は一字一句聞き漏らさないように作られているんです」

「一体どんな構造だそれ。共に暮らすには致命的な能力だなおい」

「あ、ちなみにこれは圭太郎が昔私に言ってくれた事ですからね」

「え……俺そんな馬鹿な事言ったっけ?」

「はい、言いました。引っ込み思案の恥ずかしがり屋で声も全然出せていなくて、その事を申し訳なく思っている時に……圭太郎が優しくそう言ってくれました」

「お前、良く覚えてるな」

「えへへ、だってだってすごくすごーく嬉しかったですから……。だから安心しろ。どんなに小さい声だって、俺にはちゃんと届いてる。こんなの自分のペースで良いんだよ。俺には聞こえてるんだから、ゆっくり少しずつでさ……と、他でもない圭太郎がそう言ってくれたんですもん」

「……昔の俺って、カッコ良かったんだな」

「イエス!でもノーです!今の圭太郎もカッコいいんです!」

「いやいや、今の俺には絶対言えない台詞だぜ」

「……そうですね。今の圭太郎に言われたら……ちょっと駄目かもしれないです」

「そこまでストレートに言われると、ちょっと傷付くんだが」

「あ、いえ悪い意味じゃなくて!良い意味で!ですよ!」

「別にいいよ。無理にフォローしなくて」

「だから違うんですってば!全く圭太郎はもう――」


 そうやって和気藹々わきあいあいと、二人は雑談に興じ続ける。

 隣り合って座って、共に過ごせなかった時間を取り戻すように、互いに和やかな表情で話に花を咲かせた。


「――あ、もうこんな時間か。そろそろ寝ないとな」


 軽く一時間以上は時間を忘れて話してしまい、視界の端でチラッと見えた壁掛け時計のお陰で、時刻が二十三時をまわっている事に、圭太郎はやっと気がつけた。

 ソフィアの疲労も考えて、そろそろ寝た方が良い。まだまだ話し足りないが、名残惜しくも話を切り上げる事を決める。

 

「あぅ……ですね。では、記念すべき一日目はこれにて終了です。とってもとっても実りのある一日でした!これから毎日こうやって圭太郎と過ごせると思うと、楽しみで仕方ないですっ!」


 圭太郎の言葉で夜も遅くなっている事に同じく気が付いたソフィアは、最初は唇を尖らせて残念そうな顔を浮かべるも、そこから一転して瞳をキラキラと輝かせたかと思えば、弾んだ口振りで歓喜の言葉を紡いでいく。

 その言葉を受けた圭太郎は、照れ臭くなって本音を隠したりなんてする事もなく、

 

「ああ、俺もだ」


 と、素直に、そして力強く頷いた。

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